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項目 内容
ID J3000226
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1707/10/28
和暦 宝永四年十月四日
綱文 宝永四年十月四日(一七〇七・一〇・二八)〔東海以西至九州〕
書名 〔改訂増補南勢町誌(上巻)〕○三重県南勢町誌編纂委員会編H16・12・20 南勢町発行
本文
[未校訂]2 地震・津波
 一七〇七(宝永 四)年 一〇月四日の地震の記録は諸
方にあり、震度はマグニチュード八・四であったといわ
れる(『三重県災害史』)。
 『当始神区古記録』によると、地震は当日午刻(正午ご
ろ)に起こり、津波は所によっては一〇町も奥まで押し
寄せた。そして翌年正月二七日の五ツ時(午前八時)ご
ろまで余震があり、毎日高潮を見た。
 このために神津佐・五ケ所が流失し、近在の庄屋が小
屋掛などをして、各自一〇日間も奉仕したが、五ヶ所で
は小屋掛が終わってから火事が出て、又も人足出動があ
ったという。
 『青龍寺文書』(『五ヶ所村誌』所収)には、「宝永四年
十月四日大地震、動初而大波起、民家多漂流、死者無数、
当此時而像・神社(注、弁天)倶失矣」とあり、『正泉
寺文書』「覚」は、五ヶ所村(山方)の被害を次のように
記している。
一、家流失三十一 廃家十七 破損十一
残り家十三
一、御納所蔵一ケ所流廃
一、人 男二人女二人流死 四百廿六人無事
一、米 二十三石三斗五升流失
一、籾 四十四石一升流失
一、麦四十六俵流失
一、稲数 合三千百七束流失
 内瀬地区の伝えでは、この高波は村島弁天の森よりも
一〇丈も高かったが、社内には何の障りもなく無事だっ
たので、この島は浮島(浮んでいる島)かといわれた。
村中の過半が波をうけ、仏壇へ魚類が入り込んだといい
きかせてきた(『穂原村誌』)。
 明治七年一月、内瀬村が写したものに、大庄屋の文書
から抜書した記録というのがあり、次のものがこの津波
で荒らされたとある。
三反一畝六歩 伊勢路内瀬斎田入合新田斎田村
四反六畝二一歩 同伊勢路村
貮町五反六畝二七歩 内瀬村
壱町七反壱畝二六歩 三郷入会新田
四反六畝二一歩 同上
 これらは伊勢路川河口に開かれたものであった。
 更に明治七年一月の度会県庁よりの伊勢路村への租税
令書中には、伊勢路・内瀬・斎田の入会新田四反六畝廿
壱歩には「宝永四亥年高浪ヨリ荒引」として貢米を記し
ていない(共に『伊勢路文書』)。
 明治二年の大指出(『五ヶ所漁協文書』)によると、こ
のとき各村へ麦や稈(稗カ)の貸付があったが、取立て不能とな
って後々に残ったようで、次のように記している。
五ヶ所浦 麦五石二斗八合五勺、稈二石七斗三升
神津佐 稈二石四斗三升
下津浦 稈四斗
木谷村 麦壱石三斗三升四合 稈一斗
 各の末尾には「是ハ宝永四亥年、高浪流失所へ御貸付、
取立難成、其段御達有之筋」とある。
 当日の犠牲者と思われる者を寺院の過去帳で調べる
と、五ヶ所正泉寺四人、青龍寺六人、下津浦長光寺四人、
迫間浦海雲寺三人がある。神津佐法泉寺の過去帳は古い
部分がないので確かめ難いが、当地には一八七三(明治
六)年に宝永四年と安政元年の犠牲者を合祀した供養碑
「為溺死菩提」とするものが建立されている。また、墓
地に「宝永四丁亥十月四日 潮艦恵隆禅定尼」と刻まれ
たものがあり、これは同年一〇月朔日のものとで一基に
なっているが、時日・戒名から見て、このときの犠牲者
の一人と見られる。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 四ノ上
ページ 129
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 三重
市区町村 南勢【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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