[未校訂]ものありて、今は耕地たり、藤堂氏就封後、かの沼澤を
修め、之に岩田川を通じ、大に地形を一變せりと云ふ、
亦以て影響の一端を知るべし
終りに云ふ、津市の地變に付ては、以上の外、論すべ
きこと甚だ多く、其沿革を詳かにする上に於て、皆必
要ならん、然れども茲には、明應の影響に關する記事
一班を掲ぐるのみにして止む、大方の是正を俟て、他
日別稿を草することあるべし。(完)
○明治三十六年六月十三日脱稿淨寫 去柳生
○同年同月十四日卷首の地圖二葉を作る 去柳生
こは四方君二十歳の折の草稿なり、從來津市の沿革に
就きて餘りかいたものを見ぬ様なり、因てこれを謄寫
して掲ぐることゝす、四方君若し世にあらば、そんな
舊稿を出して何とする、いけぬ〳〵と拒まるゝことな
るべし、大正改元の十一月秋雨ふる日
三村清三郎