[未校訂]津市の地變
四方弘克遺稿
津市の沿革上、尤も顕著なる事件を、明應年間に於ける
地震の影響とす、盖し一大災厄なり。
抑も津市は、安濃津の舊稱あるが如く、古來安濃部の要
港として知られ、平氏歴代の城府なり、而して足利氏の時、
海外貿易業の行はるヽや、博多防津の二大港と并で、我國
内地唯一互市場となり、京畿以東、諸國の貨物の集散地を
以て、其名支那にまで傅唱せらる。されば、海には、大船
巨舶の出入、絶せること少く、陸には商賈の戸口、日に稠
きを如(ママ)ふ、明人茅元義、著はす所の、武備志に曰く、
國有三津、皆通海之江、集聚商船貨物、西海有防
津[花旭|ハカタ]塔津、東海道有洞津、本洞響[阿乃次|アノツ]、有江通
海 係伊勢州所屬三津乃人煙輳集之地皆集各處通
番商貨抄録
欺くの如き、繁榮の地、一旦の事あるが爲めに、本來の形
勢、全く一變し、其發達を途絶し、港市の盛觀、忽ち滅却
するに至る、豈惨ならずや。茲に、吾人、聊其地變に関し
て、考説を試みんと欲す。
接ずるに明應年間、地震多きが中に於て、其影響ありしは、
明應七年八月廿五日の大震とす。五鈴遺響、伊勢参宮名所
圖會に、同三年五月七日、同七年六月十一日、及び八年六
月十日の地震の爲なりと、傅ふれとも、當時の記録たる「後
法興院記」七年の條に、八月廿五日巳丑丑辰時大地震(中畧)九月二十五日傅聞去月
大地震之日伊勢参河駿河伊豆大浪打寄海邊二三十町之
民屋悉溺水數千人没命其外牛馬類不知其數云々前代
未聞事成
とあるが如く、明應七年の地震は、其關係の及べる所、廣
く且大にして、海嘯諸國に起り、沿岸の被害、實に甚し、
而して濱名湖口の變化は、此の時に在りと傅へられ、南勢
の一邑たる大湊は、同時に全滅に歸したりと云ふ、之を以
て見れば、所謂前代未聞の事にして、同年若しくは數年前
に於て、近畿の地に、之と比すべき大震なかりしは、疑を
容れざる所、盖し安濃津の事も、亦此際なるを想ふべし。
尚當年前後の地震に付ては、實録の徴すべきものなく、五
鈴遺響等の説、信すべからず、然れとも、或は多少の影響
を受けし事あるも知るべからざるなり、
偖て、右の地變以前に於ける、津の位置は、現在より遥
かに東方なりと、勢陽雜記明暦年中津藩士山中爲綱が故老の口碑に依て記せる所に見ゆ、
尚同書に依れば、今の大門町、中番の間に橋址あり、明應
以前大小ノ橋と稱し、塔世川に架したるものにして、之れ
より市中に入れりと稱す、即ち畧今の塔世橋の如し、五鈴
遺響塔世川の條に「上世は今の地境と異にして南へ流れた
るなるべし」と推定せり、思ふに應永三十一年足利義持の
伊勢参宮記に「あのゝ津を過ぎ行くに橋あり名をとへばを
とめ橋となん申す」とある「をとめ橋」とは盖草蔭册子の
記者の言の如く、今の乙部附近に存せる、一橋なること明
なれば、當時かの「大小ノ橋」と相并で、塔世川に架した
るものならん、而して舊來の観音寺、西來寺等の所在、皆
現今の地に非るを見るも、該所一帯は著しき沿革ありしを
察すべし、かの雜記に、地震以後「河筋も變り市店も今の
津町に移りけり」と傅ふるもの、即ち是れなり。
次ぎに、海邊の狀况は、康元元年坂士佛の伊勢参宮記に
「江めぐり浦遥かにして云々」とあるにて知らるゝ如く、
海水灣入して、自ら良好の港を爲せり、當時沿岸と市井と
の間に古松奕々として、翠黛帯の如きものあり、之れ有名
なる安乃松原なるは、諸書の喧傅する所なり。而して當時
又沿岸に官道あり、恰もかの松原を以て、後世の並木たら
しむるの觀を呈す、永享五年僧堯孝の伊勢参宮記に「此と
まり即ち津夜深くたちて海の邊過ぎはべるに云々」とあるを
始め、先きに引く所の士佛紀行にも「あのヽ津を出であこ
ぎが浦を過ぎ行くほどにしほやのけぶり心細くて云々」又
義持紀行にも「津の宿を立ち出るに月の光は濱のまさごに
雪を重ねたらんもかくこそと覺侍るに遥かなる波のうへ
はいつくを限りとも見わたし云々」以て知るべし。
然るに、地震の時、安濃浦、阿漕浦の岸十數町、海嘯の
爲めに、陥没して遠淺となり、松原及び官道、共に烏有と
なる、雜記に曰く、
明應年中の地震以前には津町と海との[間|アハヒ]に[古|フ]りたる松
原有と云々、其松原の邊入江物イ初深く船のかゝり又往來
の便よろしき湊なりけるに地震の時破却して松原とも
に跡かたなく没し今の遠淺に成かわり侍と云々
尚同書には「汀十八町斗海と成」と記し、五鈴遺響には、
松原十九町許沈没したる由見ゆ、伊勢名勝志には、瀕海の
地減少する事二十餘丁とあり、之れ孰れとも、精確に定め
難かるべし、盖し所謂十數丁の土地とは、大抵南北の延長
即ち海岸線を指すものにして、東西の幅員には非るべし、而して
大槻文彦氏の説に、
八幡社地の四近は今も卑地にて僅かに出水する事あれ
ば直に氾濫を被ると云、今は社地に巨樹もある由なれば
明應以後のものならむ、此邊の陸となりしは地震にて遠
淺となりし上に岩田川の故流の砂石流出の作用を加へ
しならむ云々、津の東海は遠淺なる事干潮には十四五町
の沖まで人の脊立つと云とあれども、之れ賛すべから
ず。接するに、往古慶長の末までは、岩田川の流域は、
今より南にあること、塔世川の如くにして、八幡町附近
に其故址と稱するものあり、恰も参宮鐵道の東南側を撿
すれば、砂石歴々として、自ら一導を爲すもの、恐らく
は又其故址なるべし而して明應の地震が、現在の沿岸
に、多少の影響を及ぼせしは、之を認むべしと雖、其著
しきものは、今の東海中なりしならむ、されば、有名の
阿漕塚の如き、三國地誌に「故址は明應中の地震に没し
て海となり再び此に築くと云」とありて、變動明かなり、
若し夫レ十數町の遠淺は、多分砂石流出の作用の結果に
して、かの八幡社地近が、地震に依て陥没し、後岩田川
の爲めに、陸地となりしと云ふが如きは、即ち事實に非
るを推す、又同氏の記す所によれば「八幡町なる松原寺
は安濃松原の地なるを以て寺號とし其境内に徑三四尺
の巨松現存す是れ其舊木の一株僅かに存するものなり」
と傅ふる由、若し右に從て松原寺以東は、海灣なりしと
せん、か、其時代の如何を問はず、頗る無稽の説と云ふ
べし。先づ大槻氏の如く、明應以前に然りとするは、大
地震の際、海岸の湮滅を免れたりと、思惟するものにし
て、辯ずるに足らず、事亦諸書と支吾す。若し地變以後
に、然りとせば、明應より寛永中、八幡社の創建以前ま
で、僅々百數十年の間、能く河流の作用を以て、附近一
帯の地を形成し得たるは、之れ不審なり。抑も西來寺記
を始め、伊勢名勝志、草蔭册子等によれば、明應以後、
津市の人家は、悉く阿漕浦に移り、西來寺の如きも、同
く移ると云ふ、盖し水害を、今の岩田川南畔の地に、避
けたるならむ。又其寺趾は、今尚西來寺塚(草蔭册子に津
興字西ノ野ニ
在リト云フ)と稱せりと、津市小觀に見ゆ、以て松原寺の妄誕
を知るべし。然り而して、今古老の口碑(名勝志所載)を按ず
るに、今の乙部村に存する古松一株は、往古の遺木にし
て、明應の際、潮水其樹下に至りしを以て「鹽留の松」
と呼ぶとあり、之を實なりとする時は、かの大小ノ橋附
近に、大變化をなし、恰も影響の中心なる當地方に於て
も、湮没の難は、深く内地に及ばずして、唯沿岸のみな
るを察すべし、尚且思ふに、沿岸の名勝たりし、安濃の
湊田の如き、或は[小舟|ヲニ]の塩屋の如き、一は今の津興村の
水田に(遺響名勝志)他は今の松尾崎邊に、其名を存し(名勝志二
津土一四洞産七冊子五)未だ滅失せざるを見るも、畧當時の影響如何
を伺ふべし。
右の如く、明應の地變は、安濃津の沿海に、多大の影響
を與へしが、大体其甚しき部分は、北方にして、南方之
に次げり、北部は陥没地多く、河域を變動し、市邑を湮
滅し、南部は重に地面の低降を生じたるが如し、是れ余
の綜考する所なり、而して今の岩田川附近、即ち中央部
の狀を見るに、恰も此所は、塔世川の流域に臨む所にし
て、地變の爲めに一の沼澤となれるに似たり、伊勢兵亂
記に、慶長中の、津の兵戰を叙せる中に「濱と城と間に
入江芦原有けるが敵是を足入と心得てかしこをよけて
寄ざりけり」とある、入江芦原、盖し是れならむ。伊勢
名勝志に依れば、岩田村字櫻垣内に、其址なりと傅ふる