[未校訂](開国と安政大地震)間宮 尚子著
はじめに
鎖国令のもとで国際的に孤立を保ってきた日本は、「黒
船」の来航により開港をせまられていた。一七六〇年頃
からイギリスで始まった産業革命は、漸次欧米諸国に波
及し、資本主義国となった欧米列強は、市場を求めて東
洋に進出して来た。すでに彼らは日本をのぞくほとんど
の東洋諸国を植民地もしくは半植民地としていた。
彼らが日本の門戸を叩くのは時間の問題となってい
た。一八四〇年から一八五〇年にかけて、イギリスとア
メリカは、中国貿易をめぐって競合していた。日本の開
国のイニシアティヴをとったのはアメリカである。一八
五三年(嘉永六)六月、ペリー提督が東インド艦隊をひ
きいて浦賀に来る。またロシア使節プチャーチン提督が
同年七月四隻の軍艦を率いて長崎に来航した。翌一八五
四年(安政元)にペリー提督が七隻の艦隊を率いて再び
浦賀に現われ、三月日本とアメリカの間に和親条約(神
奈川条約)が調印され、日本開国のさきがけをなした。
ロシアのプチャーチン提督が和親条約の締結を迫って浦
賀に入港したのは十月であった。交渉が長びくうち十一
月四日の大地震にともなう大津波で乗艦ディアナ号は大
破し、やがて沈没した。同提督はこれに屈せず交渉をつ
づけ、ついに十二月和親条約の調印に成功した註(1)。
軍艦ディアナ号を大破させ沈没させた大津波は、日本
列島を震撼させた安政大地震によるものであった。安政
大地震は日本各地に甚大な被害をもたらした。太平洋に
面する土佐国も例外でなく津波による被害をこうむっ
た。一八五六年(安政三)に高岡郡須崎に有志による津
波の碑が建てられた。銘文と揮毫は古屋尉助(名は良材、
号は竹原)、医師であり儒家であり、南画家であった。
一八五九年(安政六)二月十九日の夜、須崎で一つの
集りがあった。彼らは旧知の間柄で古屋竹原を中心にし
て数人、九州へ藩命を帯びて旅立つ友人の今井貞吉の壮
途を祝う送別の宴であった。
土佐藩の山内豊信は、鎖国から開国への時勢の推移を
察し、一八五四年(安政一)八月、砲術師範田所左右次、
鉄砲方支配池田歓蔵、図取役河田小龍を薩摩に派遣し鉄
砲製造を伝習させた。一八五九年(安政六)二月、九州
の長崎、薩摩への出張が吉田東洋より今井貞吉に命じら
れた。
人々は安政大地震に計り知れない打撃を受けながらも
立ち直り、開国を機とする時代の動きを敏感に感得して
いく。開国と安政大地震に始まる安政年間を土佐国(海
ぞいの宇佐、須崎、高知城下、赤岡など)を舞台に述べ
てみたい。
註
(1) 洞富雄著『幕末維新の異文化交流』一九九五年有隣
堂刊
一 安政大地震
井上静照は、土佐国高岡郡宇佐村で安政大地震に
遭遇し、自身の子孫に伝えるために、「地震日記」と
題して地震のことや被害をつぶさに記した。静照は
一八一五年(文化一二)宇佐村真覚寺(真宗)井上
正晴の長子に生まれ、一八三二年(天保三)修業の
ため土佐国を出て、阿波、広島、播磨を歴遊して、
天保十年に帰国し、一八四七年(弘化四)三二歳で
父の跡を継いで住職となった。
いま一人山中駒吉も「隠見雑日記」に安政大地震
を記している。駒吉は土佐国香美郡赤岡の商人であ
る。富裕な商人として高知城下にも別宅を構え、赤
岡と高知における見聞を記している。駒吉は俳号を
鳳麟亭玉陵と称し俳人としても知られ、画・浄瑠璃・
狂言を嗜んだ。駒吉は一七八〇年(安永九)の生ま
れで、安政大地震に見舞われたのは七四歳の時であ
る。
井上静照『地震日記註(1)』
安政元年
十一月四日 朝五ツ時(八時)地震があり海の潮
の干満がいつもとちがう。この波を俗に鈴波といい
習わしている。鈴波がくるのは潮に狂いがあるから
で、津波のさきがけであるゆえ油断してはならない
と言い伝えている。浦人ども海面の様子を伺い、合
点がゆかないと申すうち夜も更け異条はない。
十一月五日 晴天 夕方七ツ半時(五時)にわか
に一天薄暗くなり近代未曾有の大地震。山川鳴り渡
り、土煙空中に満ち飛鳥も飛ぶことかなわず、人家
は縦横無尽に潰崩し瓦石は四方へ飛び、大地破裂し
て逃げ走ることもできない。男女ただ狼狽し児童の
泣き叫ぶ声がおびただしい。間もなく沖より山のよ
うな波が入ってきて、宇佐福島は一面の海となる。
月の入りまでに津波が九度、津波の引き潮に浦中の
もの皆流れてしまった。宇佐は流れ残りの家僅に六
十軒、諸道具を捨て置いて山へ逃げ上るものは命を
助かり、金銀雑具に目をかけて逃げ遅れたものは溺
死した。流死福島に五十余人、宇佐にも十余名いる。
福島の浜の宮、松岡の竜宮堂、西浜の山王権現の社、
東町の小宮悉く流れる。
引潮の音は百千の雷の如く、波につれて家が五軒
十軒と連り海に入る。この時金銀米銭を始め家々秘
蔵の諸道具海に流入する物夥敷男女児童の泣叫ぶ声
が、夜に入っても止まず今日までため置いた諸道具
眼前海に入るのを見る人々の心中が推しはかられて
哀れである。夜に入れども燈火なく、月の光を便り
として皆山中にこもり、波の音を聞きつつ地震を凌
ぐ。今日七ツ半より夜明けまでの地震十四、五度。
城下大地震郭中町家共過半潰れ込む。同じ刻限よ
り下町出火、地震中の事ゆえ火を消すものもなく自
然と焼け募り、御町方会所より下も新町農人町辺り
まで焼失、地震火難一時の事ゆえ逃れる方法なく死
失のもの数百人に及ぶ。同時大潮溢れきたり新町辺
りまで一面の海となる。
山中駒吉『隠見雑日記註(2)』
安政元年
十一月四日 昼四ツ時中の地震。
十一月五日 朝より温かく静かである。夕方七ツ
時過ぎより大地震甚しく、諸人驚く。それより昼夜
十度中の地震、小の地震。赤岡の中町より浜新町ま
でに住む人々、弁天社の境内大竜山へ逃げ去り、日
数八日間そこに留まる人もいた。五日の夜高知下町
崩家の中に出火し、二日間焼続ける大火となった。
十一月十四日 夜明け頃中震二度、小震昼二度
十一月十五日 早朝大震 高知にては残る家々に
瓦落ちた由
十一月十六日 雨夜に入り雪降る。夕暮六ツ時大
震
十一月十七日 夜半少し強くゆれる
十一月十八日 夜三、四度 小震中震
土佐湾のほぼ中央部、高知城下のある浦戸から西
へと海辺ぞいに仁淀川を越えたところに宇佐があ
り、横浪半島、野見半島を経て須崎となる。
平時は海上交通の要所として船舶が往来し、大洋
から[鰹|かつお]、[鮪|まぐろ]、[鰤|ぶり]、うるめ、きびなごなどのはかり知
れない海の幸をもたらす海が、このたびは災害をも
たらした。土佐湾沿岸は宇佐の井上静照の『地震日
記』にしるされたように被害を受けた。なかでも「一
番の傷み幡多、二番のいたみ須崎、三番高知なり
とぞ註(2)」と十一月二十一日の日記に山中は記している。
また十一月二十三日には須崎郡方下代彦四郎よりの
手紙として、当浦漁師商家共四百軒ばかり流家、流
死人未相知、家無し人およそ千人と記している。
先の史料で示したように安政大地震の直後は毎日
のように数度の地震に見舞われていた。このゆりは
安政三年になっても止まない。静照日記七月六日に、
福島の陰陽師がいうには一昨年入り来ったのは[雄|お]波
というもので、一両年の内に[雌|め]波が来るだろう。油
断してはならない、と流言している。女、子どもは
海鳴りを聞いて、再び津波が入ったと恐怖する。
須崎市保護文化財に指定されている「寶永津浪溺
死之塚」は安政三年十月四日に、大善寺の登り口に、
旧往還に面して建てられている。この塚については
すでに香崎和平氏註(3)と市川豊八氏註(4)の業績がある。
この塚の建立された当時、須崎は第二番目の[傷|いた]み
といわれた被害をこうむり、人々は破損した船、家
屋、田地を修復し復興に励まねばならなかった。安
政三年にいたるも小震があり、大地震が再来するか
も知れないという不安が絶えずあった。
一七〇七年(宝永四)の大地震については、近世
土佐の歴史家奥宮正明の著した『谷陵記註(5)』があり、
また香美郡夜須村常住寺の住職と推定される独楽軒
安方斎による「宝永大地震の大変記註(6)」がある。
安方斎は土佐湾に面した夜須での大地震をあらま
し次のように記している。
宝永四年亥十月四日四ツ時(午前十時)過ぎ大地
震があり半時(一時間)ばかりの間、天地も崩れる
ばかりに揺れ続けた。衆人顔を見合わせ、「これはこ
れは」というばかりである。家は今にも潰れるよう
に揺れるので皆はだしで外へかけ出たが、杖をつく
か垣につかまるかしなければ立つことが出来ない。
予などは坪につくなみ(庭にしゃがんで)大地に両
手をつかへ居候。
しばらくして三十余町隔たる浜より浪が入るぞ呼
ぶ声がし、里人呼び続け千里の山奥まで呼び伝える。
聞いた人々は我先にと山上に逃げ去る。子は泣く泣
く親を呼び、親は子の行方を尋ねて叫ぶ。ほどなく
海より二十余町のところまで浪が入ってきた。浪が
引いた時干潟がひろがり、いつもより三町余先が波
打際となった。横浜沖に黒熊という岩がある。三月
三日、正月十五日の干潮の時にもその磯根をみるこ
とはなかったのに、この時磯より沖まで干潟となり
浦人寄り合い不思議だと話し合ったという。同日七
ツ半(午後五時)頃また浪が入ると浜から呼び続け
る声がし、夜須の郷三十余町備後の下まで浪先が来
た。
以上のように夜須の有様が記されている。一時間
もの間天地も崩れるばかりに揺れ続けたし、三十余
町まで浪先がきたという。三十町として、換算する
と三二七〇米の陸上まで津波が押し寄せた。この大
地震による被害は甚大で土佐湾岸一帯に及んだ。
この時の被害を土佐藩では幕府へ次のように届け
出ている。一流家一〇一一七〇軒、一潰家四八六六
軒、一破損家一七四二軒、一死人一八四四人、一夭
人九二六人、一流死牛馬五四二疋、一流失米穀二四
二四二石、一濡米穀一六七六七石、一手船一七二艘、
一売船一三六艘、一損田四五五七〇石註(7)
土佐国の死者と行方不明者をあわせて二七七〇
人、一村の死者四〇〇人の須崎村の損失は特別に大
きい。須崎の人々は安政大地震を経験して、百三十
年前の宝永大地震による津波で溺死した四百余命を
追悼して碑を建立した。「碑は墓石型で砂岩、基壇の
上に台座石二段を置き、高さ約九七センチ、幅三〇・
五センチで、正面に『寶永津波溺死之塚』と大書き
して、左より三面に銘文を刻している。註(3)」
この塚の台座に刻まれた人名は、本願主として発
生寺現住智隆房松園、世話人として亀屋久蔵・鍛冶
活助・橋本屋吉右ヱ門である。発生寺住職智隆房松
園は、間引き(堕胎)の悪法の矯正に努力し、法話
によって多くの人を教化した。世話人の亀屋久蔵・
橋本屋吉右ヱ門は商人であろうか網元であろうか、
須崎市に鍛冶町が現存するが、鍛冶の活助というこ
とであろうか、この三名は地域の有力者であろう。
銘文をつくり揮毫したのは古屋尉助である。古屋
の銘文にあるように、須崎の人々は安政大地震を経
験して、百三十年前の宝永大地震による津波で四百
余命が溺死した被害がいかに大きかったかを実感し
た。安政大地震では伝聞していたことを教訓に山に
逃げ登り、死者を三十数名にとどめることができた。
この時期の須崎は一つのまとまりをみせていたと
思われる。それが「寶永津波溺死之塚」に結実した
ものであろう。漁港須崎の学芸を高めた僧智隆、書
家の下元西洲、医者であり画家の古屋竹原は須崎の
三先哲と称されている。
註
(1)井上静照著『真覚寺日記一』土佐群書集成十七巻一九六
九年 高知市民図書館刊
(2)山中駒吉記『隠見雑日記』寺石正路抄編土佐群書集成四
十四巻一九七七年 高知市民図書館刊
(3)香崎和平「須崎の津浪の碑と宝永大地震」『土佐史談』
一八五号
(4)市川豊八「宝永津浪溺死之塚」『土佐史談』 一八八号
(5)奥宮正明著『谷陵記』高橋史朗解説論文『土佐史談』一
九八号
(6)独楽軒安方斎『宝永大地震の大変記』土佐群書集成四十
六巻一九七九年 高知市民図書館刊
(7)『高知県史近世編』一九六八年高知県刊