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項目 内容
ID J2901092
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四~七日(一八五四・一二・二三~二六)〔五畿七道〕
書名 〔歴史探訪南海地震の碑を訪ねて〕H14・11・18毎日新聞高知支局発行
本文
[未校訂](佐那河内長願寺扁額)○徳島県那賀郡佐那河内村
[地震屋頽人不|じしんおくたいじんふ][安|あん] 地[震|ふる]い[屋頽|いえくず]れ[人安|ひとやす]からず
かさけかたいすいざん[可|か][嗟氣化太衰殘|さけかたいすいざん] [嗟|なげ]く[可|べ]し氣(気運)[化|かわ]り[太衰|たいすい](甚だ)の残るを
[災及池魚生巨焰|さいぎゅうちぎょせいきょえん] [災|わざわい]は池魚に[及|およ]び、巨焰を生ず
[勢驚|せいきょう][海若起狂瀾|かいじゃくききょうらん] 勢は海を驚かし、[若|すなわち]狂瀾(荒れ狂う波)起る
[茇舎月餘猶跼蹐|ばつしゃげつよゆうきょくせき] 茇舎(野宿)、月餘(一ケ月余)にして[猶|なお]跼蹐(身の置き所の無き)なり
[流民歳晩奈饑寒|りゅうみんさいばんなきかん] 流民(家に帰れない民)歳晩(年の暮)饑寒(飢え凍える)を[奈|いかん]せん
[従此廟堂加戒懼|じゅうしびょうどうかかいく] [此|これ]廟堂(政庁)に戒懼(いましめのおそれ)を[加|くわ]うるに[從|より]て
[中和位育亦非|ちゅうわいいくまたひ][難|なん] 中和(偏らず程良い) 位育 (秩序整い育成する)[亦難非|またこばむあら]ず
安政元年[甲寅|きのえとら]十一月五日地大イニ震人家往〻(折々)為之ノ倒ル
或イハ[雖|いえども]廣屋(広い家) 大厦(大きいひさし)ト不免レ且[海咲|かいしょう]大ニ[發|おこり]漁
家[蜑戸|たんこ](海人の家)漂没スル者[亦|また]多シ矣(なり)加エ之ニ徳島内坊(町村)及ビ小松嶌島坊
失火延焼スルコト數数千戸復※1[畏|い][懼|く](おそれ)之ヲ餘(自分)ノ詩ヲ以テ記ス
之ヲ[當|まさ]※2ベシニ[此時|このとき]
主君[之|の]邸大書院[亦倒|またたお]ル[於|に][是|ここ]以テ[其内戸破裂|そのないどはれつ]ノ[餘板|よばん]ヲ
為シ扁額ト命ス復※1ニ書ヲ其ノ詩ヲ掲ゲ諸 廊廡(屋内のひさしろうか)
以テ示スヲ後世ニ[使|し]※3シムテ人ヲ勿ラ忘ルル可シ[謂|いわ]レ其ノ[為|ため]
[慮|おもんはかる] [也|るなり]ヤ[遠|はるか]矣(なり)[若夫|もしそれ]扁 (扁額)中ニ有リ畫画竹[而|て]四 郭
(かこい)有ル[疵|し](きず)[瑕|か][者皆|はみな]存ズル[其|そ]ノ[舊|もと]ニ也
外※4臣巖復※1[謹|つつし]ミチ[識|しる]ス
※1復 岩本賛庵(一七九二~一八六三)儒家漢詩人、賀島氏
の家臣、名は復
※2當 まさに……すべし ※3使して……せしむ
※4外臣 藩直属でない家臣、巖は岩本姓の意か
【意訳】安政元年(一八五四)の十一月五日に大地震が起
こり、人家は次々に倒れた。大きな屋敷とて例外ではなか
った。津波が来襲して、漁師や海人の家は流され海に没し
たものが多かった。その上徳島城下や小松島の町は火事
によって数千戸が焼失した。復(=岩本賛庵)はこれをお
それ、漢詩に書き留めた。この時に主君(=蜂須賀家の家
老賀島家)の邸の大書院も倒れた。(主君の)命令で其の
破損した戸板で扁額を作ってその詩を書き、後世の人が
忘れることのないよう廊下などに掲げた。扁額中の竹画
と疵(=地震による)はもとからのものである。
(浅川千光寺扁額)○徳島県海南町
[于時|このとき]嘉永七甲寅十一月四日日辰刻午前八時頃大地震[須臾|しばらく]ニして潮狂
[ひ|い]町中へ[溢|あふ]れ込み是み全く大潮の入るなら[む|ん]と人〻驚き山
上へ荷物をはこび迯逃登り[周章|あれて]あ[へ|え]り此日は一天に雲風な
く日輪朧の[こ|ご]とくなれ[は|ば]寶永度の如き震汐もあらんかと
海原にか[か|が]り焚きてその夜を明しぬ翌五日[ハ弥|はいよいよ]風収り
天色前日の如く殊に暖[な|か]ること時候に[背|そむ]きけれ[ハ審敷|ばいぶかしく]
おも[ひ|い]山上へ仮小家を建荷物をはこ[ふ|ぶ]ものもあり又は前
日の變にて事すミしとこゝろゆるみ持出したる荷物を持
帰るもありて[區〻|まちまち]なる折から申刻午後四時頃より古來未曽有なる大
地震漸くして家藏崩れかゝり黒煙たち山海鳴ひ〻き老若
男女あわてふためき迯逃げま[とひ|どい]ける[か|が]忽ち津浪山の如くに押
來れ[ハ|ば]な[け|げ]きかなしむ聲も[喧|かしま]しくもより〳〵の山ヘ〳〵迯げ登り
見るに一番潮より三番汐ま[て|で]の大荒れいわんかたなく浦
村人家土藏[不殘|のこらず]流失せり天満宮大歳御崎明神江音寺千光
寺東泉寺門徒庵のみ引殘り四番潮より後ハ幾度ともなけ
れ[と|ど]夜ニ入り尚大地震鳴動して人〻生るこゝちもなくひた
すら念佛のミにて夜を明しけれ[ハ|ば]ものゝわかちもなく
暁寅刻午前四時頃に至て震遠くなり浪も少しく静りぬるに土地は跡
なく海河原とか[ハ|わ]りあわれなること言葉に述べ[か|が]たし津浪
の高さ二丈より所により三丈餘観音堂石壇廿五段迠一谷
カラウト阪下[邊|あたり]ま[て|で]伊勢田[ハ|は]馬頭庵迠迄浦[ハ|は]す[へ|べ]り石坂
麓ま[て|で]三ケ寺とも坐上四尺餘死人弐人淺川浦喜右衛門重
大郎なる者なり馬弐疋二匹死す大阪其餘の國も船に乘迯逃げ出し死
人[夥敷|おびただしき]よし百有餘年の後かくの[こ|ご]とき地震津浪あらん
節[ハ|は]かなら[す|ず]そのしるし前にある[へ|べ]しかま[へ|え]て山上へ仮
家を建て荷物家財米麦煮物の道具及戸障子襖畳笘縄[杯|など]當用
の品〳〵[速|すみやか]に持はこ[ひ|び]仮住居の用意肝要也[決而|けつして]
舩に乘り組み助からんとおも[ふ|う]ことなかれ後の世の人心得のた
め此あらましを書き附けて殘し置くものなり大汐年号永正九年
八月四日慶長九辰年十二月十六日慶長九迠九十四年目宝永四亥年
十月四日是迠百四年目嘉嘉永七寅年迠百四十八年目なり此記[需|もとめ]に
鷹[し|じ]て書しるすもの[ハ|は] 當山先住
光圓野納〓
文久元辛酉一九六一年六月日
施主 土佐屋権吉
(熟田峠地蔵尊碑)○徳島県海南町
宝永度[ゟ|より]嘉嘉永七寅年迠百四十八年目なり
[于時|ときに]嘉永七寅年十一月四日辰刻晴天日
并並よく海上浪靜穏ニして暖氣を催ふ
す事時候に背きしかるに天地震動
して大地震潮町中へ溢れ込猶また
【地蔵尊像】
翌五日申刻大地震并津浪之高サ三
丈餘も山ノ如くニ押來リ諸人[周章|あわて]
あへり山上へ迯逃登り海辺之人家流
失野原と相成事也
施主大里村銀兵ヱ
(志和岐震災碑)○徳島県海部郡由岐町
(向かって)正面
去ル嘉嘉永七寅年霜月十一月初四日朝五ツ♠八時頃
大地震不♠時ニ汐高滿有此♠浦中家財
を寺或ハ高き人家へ持運[ひ|び]翌五日七ツ♠四時頃
亦〻大地震[忽|たちま]ち津浪押來リ舩網納屋
左側面
[不残|のこらず]沖中へ流れ失い浦人[漸|ようやく]寺又ハ山[抔|など]へ遁
登り夫々無難ニ一命助りし事全氏神諸
佛の御加護也[依之|これにより]又〻幾後年ニ及び大地
背面
震之節汐高滿[有之|これある]♠時ハ必定津なみ押
来ル[へ|べ]し其期ニ及び少しも[為無油断|ゆだんなきため]荒々此
石ニ彫記長く子孫へ知らせ置[度而己|たきのみ]信刕下稲那伊那住人
石工 新吉
彫之
法印隆鳳写之
右側面
文久二戌年 施主 浦中
大施主 商人中
九月中吉辰世話人大黒屋利兵エ
(由岐子安地蔵石佛)○徳島県由岐町
 この石仏は子安地蔵として、コンクリート堂内で鄭重
に祀られている。
 『由岐町歴史散歩』によると、安政地震の時、浜の堤防
に築き込んであったのが、光って仕方ないので此の地に
庵を建立して安置したもので、縁日には賑わった。紀年
銘貞治六年(一三六七)は、康安元年(一三六一)の大
地震から六年目で、震災供養のため造られたのかも知れ
ないと記載されている。
 康安、貞治は北朝年号で、学術的には(理科年表など)
南朝年号で表記され、地震は正平一六年、この地蔵銘は
同廿二年に当る。
 石仏は向かって右下方の船形光背窪彫の中に右手錫
杖、左手宝珠の延命地蔵尊像が浮彫されている。顔面の
欠損、下方も斜に破壊しているのが痛ましい。紀年銘が
不自然に離れている事などから、これはもと大岩に彫ら
れた磨崖仏ではなかったかと想定される。
(東由岐浦修堤碑)○徳島県由岐町
紀念碑
東由岐浦修堤碑
嘉永七寅季十一月四日朝辰刻午前八時頃地震潮立浪怒翌五日
朝巳刻午前十時頃地大震人皆避難於山頂♠海嘯山頂に避難時津波襲来而到於
長圓寺下長円寺下に至る堤防破潰流失家屋百數十戸村内[僅|わずか]十餘戸存ずる
[耳焉|のみここに]死傷[夥極悲惨|おびただしくひさんをきわめ]領主蜂須賀候命吏役人に命じて改修す
大正元年九月廾二日午前八♠風伯(神)雨師(神)[逞威|たくましく]海[若|かく]亦怒る翌
廿三日午前二時風[益猛|ますますたけり]雨益暴[涛聲澎湃|とうせいぼうはい]大波相打つ音民皆[老怖|つかれおじ]る[矣|なり]
扶老携幼老を助け幼をやずさえ 避難於高地高地に避難忽[焉|ここに]海嘯高波襲来堤防決潰家屋
流亡倒潰舩舶流失破壊多し[於是|これにおいて]得官補助官の補助を得村民醵金を
[以|もって] 起功於大正二季三月竣於同年八月築堤大正二年三月に功を起こし同年八月築堤を終わる堅牢如天造天然造りの如し
[乃|すなはち] 建碑を以て告げ後日に [比|そなえる]
大正二年九月 久富竹山謹書
工事委員
漁業者総代
戎谷利三郎
土内繁太
清水清平
泉松次郎
瀧栄太郎
川西定七
戎谷利平
濱口半三郎
坂本儀平
漁業者総代
粟田牛藏
商人総代 由岐中 重吉
那賀郡桑野村土木請負人 堀川丑太郎
彫刻人 牟岐村 上平喜平
(木岐王子神社石灯籠)○徳島県由岐町

嘉永七歳
寅中秋
一燈
嘉永七寅十一年一八五四年(=安政元年)五日清晴天七ツ時午後四時大地震白濱氏子中
半時之内大汐三度込み入り軒家流失凢凡そ四丈
余上リ當宮流失明卯安政二年八月遷宮大地震
之節油断[無之㕝荒方記置|これなきことあらかたきしおく]
(牟岐大震潮碑)○徳島県牟岐町
安政元年甲寅歳十一月四日辰ノ刻午前八時地大ニ
震フ巳ノ刻午前十時狂潮潮狂いて進退度無ク温度殊ニ高シ
人々恐怖ニ堪ヘズ 山頂ニ避難ヲ為シ憂愁裏ニ一
夜ヲ過ゴス 翌五日晴天風雲無ク日輪朦朧トシテ
申刻午後四時大地震暫ク揺り丈餘ノ逆浪襲来[陵|おか]ニ
[襄|のぼ]り反覆三[次|たび]ニシテ止ム家屋ノ流失六百四十戸
溺死三十九名若シ夫レ天変地異ノ兆候ニ遭ハバ
油断無ク避難ヲ為ス事肝要ナリ
震暦
永正九年津浪 四百二十一年前
慶長九年海嘯 高サ十丈余七度襲来ス三百二十九年前
宝永四年大潮 二百二十七年前
安政元年大潮 七十八年前
昭和六年五月一日 西青年分團
《背面》
世話人
西分團員一同
久佐木種太郎
目良有遠
亀田利夫
田原重一
大喜田美勝
濱内吉太郎
石工 新開理市
(岸本飛鳥神社懲毖)○高知県香我美町
[諺|ことわざ]に由油断大敵と[ハ|は]深意あることにて[仮初ニ|かりそめに]
おも[ふへ|うべ]から[す|ず]安政元寅年一八五四年十一月の事なりき朝五
♠時(五ツどき=午前八時)頃常に覚[へ|え]ぬ程の地震して岸本の浦塩のさし引十間余
の違あり又手結の♠湊内も干揚りて鰻をうることな[と|ど]夥夥し
同日両度小震すしか[ハ|は]あれ[と|ど]さ[は|ば]かり驚く人もあら[さ|ざ]り
しを翌五日八♠時(八ツどき=午後二時)過大に震動すること三[度|たび]七
♠時(七ツとき=午後四時)過大雷鳴の如きどろ〳〵と響くとひとしく大地震すこ
ハはいかにと衆衆人驚く程こそあれ家藏蔵高塀器物の崩崩れ破
るゝ音さら[ニ|に]い[ふ斗|うばかり]なし迯逃んとすれ[と|ど]も目くるめきて自
由なら[す|ず]ほう〳〵(這う這う)家を出けるに津波打来りて當地は徳善
甼町より北の田中赤岡[ハ|は]西濱並松の本吉原[ハ|は]庄屋の門ま[て|で]
に及[ひ|び]又川尻の波[ハ|hあ]赤岡[神輿休|こしやすめ]のほとりま[て|で]にいたり古
川堤夜須堤も押切られて夜須の町家な[と|ど]過半流失すかく
て人〳〵人々[ハ|は]老を扶け幼を携[へ|え]泣叫[ひ|び]つゝ王子須留田又[ハ|は]
平井大龍寺の山へと逃登りて命助かりぬ此時國中の官舎
民屋夛多く轉倒し[就中|なかんずく]高智知下町幡夛多中村ともに失火あり
て一圓円焼亡し[凢|すべ](=凡)て怪我横死何百人とい[ふ|う]事なし幸甚なる
かな此地[ハ|は]神祗※祇が正の加護によりて一人の怪我もなく彼の山
〳〵[ニ己家|にこや]をかま[へ|え]日を經経るに随[ひ|い]て震もいさゝか[穏|おだやか]に
成しか[ハ惠|ばめぐみ]あまねき[大御代 の忝|おおみよかたじけなさ]を[悦|よろこび]つゝ皆[己か|おのが]家に帰
りきぬ[抑|そもそも]宝永四年一七〇七年の大變変[ハ|は]今をさること百四十八年に
なりぬれ[ハ|ば]又かゝる年♠数に[ハ|は]必ず變事の出こん出てくるな[と|ど]い[ふ|う]
人もあ[りなめ|あるだろう]と世變はいつあらん事[豫|あらかじ]めしり[か|が]たしさ
れ[と|ど]常[ニ菟|にとも]あらん♠時は[角|かく]と用心せ[ハ|ば]今其の變にあひても
狼狽せ[さ|ざ]る[へ|べ]し今の人〻寶永の變を昔[は|ば]なしの如くおも
[ひ|い]て既に油断の大敵にあ[ひ|い]ぬさるによりて後世の人〻今
の變事を又昔[咄|はなし]の如くおも[ひ|い]て油断の[患|うれい]なからしめん
ためことのよしを石[ニ|に][ゑ|え]=彫りて此御社と共に動きなく萬歳
の後に傳[へ|え]んとふる[ひ|い]おこしたる[ハ|は]里人[か|が]誠心のめ[て|で]た
き限りに[そ|ぞ]ありける 千規たま〳〵※高見の官舎に
祗役して役に奉ずる□[倶|とも]に彼の變事に逢いたれ[ハ|ば]其よし書てよと
人々の乞[ふニ|うに]まかせてかく[ハ|は]記し[待|はべ]りぬ[穴賢|あなかしこ]
安政五年一八五八年戊午季秋穀旦九月吉日 徳永千規 [誌|しるす]
前田有稔 書
澤村虎次 刻
(西山観音寺地蔵台座碑)○高知県夜須町西山
向かって右面
安政元甲寅十一月五日
安政三丙辰三月建之
津浪入此㕝事印
正面
爲常光代々菩提
後=役の誤り
♠=兼
栁=柳
長尾爲治
別後五平
松田彦右衞門
橋本♠太郎
中澤亀太郎
河野安太郎
近藤米蔵
能瀬庄之助
和田安次郎
畠中藤蔵
橋本久万次
河野又次
岡本栁吾
橋本幸太郎
有安小兼
近藤喜久次
橋本平之助
中澤徳十郎
橋本武右衛門
井上政右衛門
畠中徳馬
廣田安蔵
中澤常次郎
建之
※点線より右は背面
左は向かって右側面
向かって左面
施主
常光久助
(里改田琴平神社玉垣碑)○高知県南国市里改田
安政五 戊午 歳
三月吉辰
1
嘉永の[初|はじめ]風雨序を失[ふ|う]事打1續きたりし[か|が]
同七甲寅年十一月四日巳刻2地震せし[か|が]共
させる3大震にもあら[さ|ざ]るに潮狂[ひ|い]て漁の[妨|さまたげ]と成り
ぬるを海人[等|ら]何のこゝろなく翌五日に至る
2
天晴れ雲なきに申の上刻4大震して地裂け山崩れ
内にしては棟にしかれ外にしてハ石にうたれ所に
[頼|より]てハ回祿5起りて人家寳藏ま[て|で]烏有となる
をしむ[へ|べ]し寳財名器一時に灰となりしことを
3
親を尋ね子を求むる聲山野にミち〳〵て三峡6の悲猿を聞くよりも[猶|なお]はらわたをたてり7酉の下刻
8に至り坤9の方より[海嘯|かいしょう]01う[つ|づ]まき来り其勢に
当たれる所いかなる柱礎と云え共たまりえ[す 忽|ずたちまち]
4
平砂となり田園は沈没して[黿♠|げんだ]11の[栖|すみか]と
なる[鳴呼|あヽ]恐る[へ|べ]し天地も[数|さだめ]ありてや此歳
寳永の変より一百四十八年に當たれり
諸國にもかゝる震災ありとて十二月に
5
安政と目出度く改元あらせらる
其後三四年の間日夜の震数を
7
しら[さ|ざ]れ[と|ど]も海潮の氾濫はふたゝ[ひ|び]
なかりき此変に當たりて甲は[燼|もえのこり]と
8
成り乙は魚と成る[へ|べ]きを此の御神の
[恩頼|ふゆ]を得て[免|まぬか]るゝ事を報[し|じ]
6
奉ら[む|ん]と此の玉垣をものし
12[且|かつ]此のよし13を[鏤|ほり]て後世覚悟41の
9
一助共なさ[は|ば]や15との人々の志願を[需|もとめ]に
應[し|じ]て七十五老漁橘重得[謹記|つつしみてきす](花押)
註1異変 2午前十時 3それほどの、たいした 4午
後三時 5火災 6揚子江上流にある三つの峡谷、故
事ありか 7腸を断てり↓耐え難い悲しみ 8午後七
時 9南西 10つなみ 11[大鼈|おおすっぽん]と鰐の類(不快な生
き物のたとえ) 12造り 13わけ、いわれ 14心構え
15なるだろうか
※□で囲んだところは拓本では欠字、他資料『三災録』
付紙による(『土佐史談』一九九号43頁間城龍男氏稿参
照)
※玉垣配置の6・7・8の順序が入れ替わっている
(三里仁井田神社玉垣碑)○高知市仁井田
嘉嘉永七寅十月末[ゟ|より]潮
くるい同十一月四日朝す[ゝ|ず]
なみ入る同五日七ツとき過
大地震まもなく大潮
入向〻潮くるい候時ハ
ゆ[た|だ]んす[へ|べ]から[す|ず]
安政四稔年丁巳歳
令月良辰良日
(萩谷名号碑)○高知県土佐市萩谷
南無阿弥陁佛
安政元甲寅歳十一月五日申の刻午後四時頃大地震日入
前より津浪大に溢れ進退八九度人家漂流
残る家[僅|わずか]六七十軒溺死の男女宇佐福島を
合せ[而|て]七十餘人なりき[都|すべ]て宇佐の地勢ハ前高く
後低く東ハ岩崎西は福島の低ミより汐[先|まず]迯
路を取巻く故昔寶永の変にも油断の者[ 夥|おびただ]
[敷|しく]流死の由今度もその遺談を信[し|じ]取りあ[へ|え]
[す|ず]山手へ逃げ登る者皆[恙|つつが]なく衣食等調度し又ハ
[狼狽|あわて]て船にのりな[と|ど]せるハ流死の数を免れ[す|ず]
[可哀|あわれむべき]哉其翌日ハ御倉開けて御救米頂戴し
凍餓に至るものなく誠ニ[難有|ありがたき] 御仁沢下りけれ
[ハ|ば]後代の変に逢[ふ|う]人必ず用意なくとも早く山
の平らなる傍に岩なき所を[択ひ|えらび]て逃よかし且流失
の家材衣服等拾ひ得し人暫時内福に似たれ[と|ど]も間
もなく流行の悪病ニ染ミ[悉|ことごとく]皆なくなりしを眼
前見聞したるとを告げ残し殊ニ両変溺死の人の
菩提を弔わん為にと衆議して此碑を立るものと云[爾|のみ]
安政丁巳十一月♠邨畊西村耕助[識|しるす]
世話人
緑屋
傳平
久市屋
菊右エ門
梶和屋
源次郎
(青龍寺国家繁栄碑)○高知県土佐市宇佐町
嘉嘉永七寅十一月五日申の♠午後四時古今[稀|まれな]る地震ありて城下を
初め郷村浦〻燒亡流損多し
龍浦津浪池にたゝ[へ|え]長衣衆衆の家一の汐にな[か|が]れ二の汐に
元の礎にか[へ|え]る皆家に不動尊の 御軆体をあ[つ|ず]かりける
ゆえに加護のなす處と今ミな不思儀の思いを成す
國家繁栄衆力一躰体
[爰|こヽ]に前の院主仰海法印鳫雁木の破壊を修せんと
公に達せし[か|が]許したま[ふ|う]とい[へと|えど]もなら[す|ず]して世を去
りたりとて志をつ[き|ぎ]て長男小女ニ至るま[て|で]進めて石を
運び功なり願なりぬ
文久三癸亥 某
正月日
(入寺山阿弥陀堂絵馬)○高知県佐川町
奉掛繪馬壱画 [能生寺寺中山|のうしゃうじしちうざん] [本尊|ほんぞん]阿みた如来
安政元年寅十一月五[申|さる]の[下刻大變大地震此♠當山|げこくたいへんをヽぢしんこのときとをざん]の[井手|いで]
の[上|かみ]ニ[白淵|しらふち]と[言所ゟ空|いうところよりそら]ニ[登|のぼる]ル[所|ところ]ニ[昔|むかし]より[光|ひかり]り[岩|いわ]と[呼大|よぶをヽ]
[石|いし]あり[廻|まわ]り七丈[餘高|よたか]サ五丈[餘此石右大地震|よこのいしみきをヽぢしん]の[為|ため]ニ[寅卯方|とらうノほふ]へ
かたむき[其後日〻地震止事更|そのごにちにちぢしんやむことさら]に[無誠|なしまこと]ニ[老若男女|ろうじゃくなんにょ]のなげ
き[悲|かなしむ]む事[言|いヽ]かたなし[同|をなじく]七日夜[戌之刻大塩溢来|いぬノこくおおしをあぶれきた]ルとよぶ
[聲天地|こえてんち]ヲ[動|うごかし]し[萬人|ばんにん]をぢ[恐|をそれ]れて[一足|いちあし]を[出|いだし]し[老|をい]お[助児|たすけじ]を[助|たすけ]
け[或ハ馬|あるいはんま]をひき[牛|われさき]をひき[我先|われさき]をあらそひ[山登四方|やまをのぼりよ も]をか
へリ[見|み]るニ[灯提明松|ちょちんたいまつ]ちる[花|はな]の[如く|ごとく][恰|あたかも]も[其明光日中ゟ|そのめいこをにっちうより]モ[明|あき]
らかなり[暫山|しばらくやま]ニたんそく(嘆息)する[中地方ゟ高|うちぢかたよりたか]こへ(声)に[而聲|てこえ]〴〵
ニぞく(俗)の[仕業大|しわさをヽ]うそなるぞ[下|くだれ]れ〳〵と[呼|よび]つぎ〳〵[呼聲|よぶこへ]
[甚し其ゟ心|はなはだそれよりこヽろ]を[安|やす]んじ[高|たか]き[山を下|やまをくだり]り[神|かみ](と)与[佛|ほとけ]の[御利|ごり]しよふ
と[一同無事|いちとふぶし]を[尋|たづね]て[悦事甚し其後昼夜少|よろこぶことはなはだそのいごちうやしょ]〻[モ地震止事無|もぢしんやむことなし]
[同|をなじく] 二[年卯|ねんう]三月十一日[巳|みの]中[刻右|こくみぎ]の[大石地震為凢|をヽいしぢしんノためをよそ]八十[間|けん]
[斗下|ばかりをち]なる[谷|たに]そこへ[入|いる]ル[今光岩此圖|いまひかりいわこのづ]のごとしをわんぬ
[此繪馬主|このゑまぬし]ハ
[先祖美濃|せんそみのヽ]の[國|くに]ヨリ[仁井田濱|に い だはま]ニ[來|きたり]リ[五|ご]人[衆|しう]ノ壱人也
[西田彦|にしだひこ]太良ナリ[慶長|けいちょ]四年ニ佐川斗加野村[往|ぢう](住?)[居ス其ゟ今至リ|いすそれよりいまニいたる]
[迠|まで]十二[代未(末?)孫
[西田|にしだ]岩藏今寅年迠六十五才躮(倅)常作夘年迠年四ママ才次男亀次今卯年迠 二十七才
[西田|にしだ]菊助今寅年迠六十三歳躮虎次今寅年迠三十才次男弥藏今卯年迠 二十七才
[画工泰行|えくやすゆき]なるもノ[望|のぞみ]して[此圖|このづ]を[写|うつ]さしむ[先|さき]〻〳〵[繪馬虫|ゑんまむし]
[入|いり]ニ相成候[♠|とき]ハ[旦|よろ](宜?)[敷御頼|しくをんたのみ]申上候
安政三年辰十月廾八日
[繪馬主|ゑんまぬし]斗加野村西田菊助〓
諸衆中様
(伊田海岸震災碑)○高知県大方町
す〻なみきたるときハふね十丁ばかりおきへかけとめ申
事甚よし
安政元甲寅十一月四日す々なみ來同五日七ツ頃大ぢしん
大しお入浦一同リウしつ是ゟさキ百四十年ゟ百五十年ま
で用心すべし
爲後世 記之
松山寺住
行年六十四 文瑞
自作
(下田水戸住吉神社碑)○高知県中村市下田
安政元
寅年十一月四
地震潮□□□□□□□
ころ大地震凢一時斗り
□□□□□し人いたみ
□浪入□□□□□□日
の地震□凢二町□歩大
□□□□□□□□□□
又潮の狂ひを□□遺置□
□るへし右□□後世心得
ため□□爲す尚くわしき
住吉社内に納 筆記
安政六未四月日
(五味天満宮地震碑)○高知県土佐清水市
頃[ハ|は]嘉嘉永七寅年十月より潮くるひ
十一月四日す[〻|ず]なみ来り五日大地しん
間もなく大し[ほ|お]入来る向〻先々潮
くる[ひ|い]候時[ハ|は]大へんとこ[〻|こ]ろに用心す[へ|べ]し
此の碑は元伊豆田峠に
有りたるもトンネル
開通の為移転せり
昭和三十一年一月一日
奉仕者 小方
清岡光
楠目銀次郎
(三崎十字橋碑)○高知県土佐清水市三崎町
嘉永七寅十一月五日大地震
[向かって右側面]否大ママ汐火けし家出コト第一也宮﨑林右エ門
同苗友三郎
[表]
□永七年
十字橋
中正月落成




世話人□
(三崎浦震災供養石仏二基)○高知県土佐清水市三崎町
慶慮元丑七月立之
為安全【地蔵立像】
施主泉屋儀助
[向かって右側面]
嘉永七甲寅
十一月五日七ツ時午後四時頃大地しん
[直|ただち]に大汐入る川の東路は田中
のよこ道西路はたか佛道限
[正面]
【阿弥陀坐像】
南無阿彌陀佛
[向かって左側面]
為後人建之後人のためこれを建てる
三崎村中せ話人寅平
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 三
ページ 533
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都道府県 高知
市区町村

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