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項目 内容
ID J2901089
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四~七日(一八五四・一二・二三~二六)〔五畿七道〕
書名 〔土佐史談198号〕H7・3・31土佐史談会発行
本文
[未校訂](浦戸の地震碑について)間城 龍男著
 高知市浦戸の稲荷神社の境内に、「安政元寅十一月五日
大地しん津浪、後世人大地しん有時、津浪入と心得べし、
大黒屋嘉七良建之」と、刻まれた地震碑がある。
 この碑について、明治中期の土佐遺事雑纂(中)には
「浦戸津浪標、浦戸村小字稲荷坂にあり、秦氏追手門の
跡是なり、―中略―、右標柱は元稲荷神社の神門なりし
に、該振動に倒仆破折せられるものを、請いて造営せり、
云々」。明治三十四年の浦戸港沿岸震浪記には「今、桂浜
と浦戸堺なる越戸に、大黒屋嘉七郎と言うものの建設し
たる、径一尺二寸、地上高さ七尺の御影石に彫刻したる
記念碑あり、―中略―、同所は海面より高きこと凡そ二十
尺なり、しかして、該洪波はほとんどこの越戸の頂きに
達せんとせしも超越するにいたらざりし、云々」とある。
大黒屋嘉七郎は、大地震の震動で倒壊をした稲荷神社の
鳥居を貰い受け、前記の碑文を刻み、浦戸と桂浜境の稲
荷坂の越戸に建立し、後世の人々に大地震後の大津波を
警告したのである。
 当時の稲荷坂は現在の稲荷神社の境内とほぼ同じ高さ
で、海抜高度は七、八メートルもあり現在よりかなり高
かった。「高知下町浦戸湾風俗絵巻」を参考にすれば、当
時の稲荷神社の入り口は稲荷坂の頂上の北にあり、倒壊
をした鳥居はこの坂に面して建てられ、地震碑もまたこ
の坂の頂に建てられていたのである。
 急で狭い稲荷坂は何かと不便であった。このため、多
分大正時代であろうか、自動車の通行も出来るようにと、
坂道を低く広く改修をして現代の如くなった。この時、
稲荷神社は境内を下段にも設け現在のように作られた。
同時に地震碑も車の通行の邪魔になるためか、稲荷坂よ
り下段の新しい境内に移し、稲荷坂を通る人々にもよく
読めるように配慮して、坂道の近くに参道を背に道路に
向けて建てられたのである。
 所で、最近はこの坂道を徒歩で通る人は少なく、多く
の人々は車に乗り碑には目もくれない。現代では南海地
震の後に大津波の襲来することはよく知られており、こ
の碑も役目を終えたのであろうか。
(付記)
 この地震碑に用いた鳥居は、津波によって倒壊したと
言われる方も居られる。しかし、浦戸の家屋は安政津波
によって全戸浸水をしたが流失家屋は一戸もなかったの
が史実である。また、下段の境内は、稲荷神社と高い稲
荷坂から下る道路との谷間に存在していたことになる。
道路より低い谷間に境内が存在していたということは、
地形から見ても考えられないことである。もともと鳥居
は、稲荷坂の頂上の前にあったのであるから、津波は鳥
居の基にも達していなかった。即ち、鳥居は大津波で倒
れたのではなく大地震に倒れたのである。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 三
ページ 526
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 高知
市区町村 高知【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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