[未校訂] 千歳町毘沙門の氷置茂平氏より、「文政十三年七月二日
大地震記録」(一八三〇年、新暦では八月十九日午後四時
頃)をお借りしました。記録の月日や記録者は明らかで
はありませんが、当家の人の手になると考えられます。
「追々世間の風聞に…」という伝聞の形で記されていま
す。
この氷置家文書(A)を中心とし、他に並河暢家文書
(B)、園部町史史料編Ⅳの「小林九兵衛日記」(C)、『京
都大地震』(三木晴男著)の中の史料(D)を参考にしま
した。
Bは年を文政十四年と誤記しており、かなり後の記録
と思われます。Cでは倅(せがれ)が見たとあり、地震
後すぐの記録と考えられます。
亀山城下町(明治二年亀岡と改称。当時の城下町には
柏原も含まれる)付近の被害について、Aでは「亀山に
てはあまた家つぶれ、人あい果て候もこれあり、かつ怪
我人などもこれあり」とあり、柏原村の山田やでは酒屋
商売をしていたが、この地震で十石入りの酒桶が百本ほ
ど倒れたため「柏原村は酒の海とぞなりにける」、百姓た
ちは酒が田に入ると稲が「黒くすぼり」になるので、田
の水口をふさいだとあり、また三宅町の鍵屋市兵衛とい
う小売り屋が地震でつぶれ、家人二人死亡、亭主も半死
半生となり、そのほか「おろしや」「亀や」もつぶれたが、
中町では格別の被害はなく、中町の番所はゆれたと記録
しています。
この文書から、亀山町では多くの家が倒壊し死者も出
たこと、特に話題になっていたのが柏原村の山田や・三
宅町の鍵屋市兵衛の二件の被害ということがわかりま
段丘上に並ぶ地震被害地
す。
他の史料もあわせて被災地を地図に写しとると、篠村、
馬堀、柏原、三宅、古世、安町、河原町、並河村と一直
にならんでいることに気づきます。この線から外れたと
ころの被害は記録されていません。また亀山城はこの線
上にありますが、被害が記録されていないのは地震に強
かったことを物語っていると思います。柏原と三宅は特
に被害が大きかったと思われ、Dの史料からは河原町と
宇津根にも倒壊の家が多かったことがわかります。具体
的な被害の話になると、Aの山田屋(酒屋)がDでは醬
油屋で即死三名となっており、同じ話が別々に伝わった
とも思われますが、他の史料の発掘によってその事実が
明らかになってくると期待されます。
宇津根では、Aでは浜庄之助、Dでは野原庄之助の土
蔵が倒れたとあり、当時宇津根は川港として栄えていた
ので、「浜の庄之助さん」ということで同一人物と考えま
す。
次に、被災地が線状に並んでいると前に述べましたが、
これを地図に記入すると図のようになります。左の図の
ように描いたところは河岸段丘を示してい
ます。河岸段丘とは、河川・海などに接し 〓
た段状の地形で、平坦な部分と、前面には
川水・海水などで削られた急傾斜地・崖があります。亀
岡盆地の場合、そのほとんどは複合した扇状地が作り出
した土地が隆起し、大堰川に合流する諸河川がそれまで
の平地を削って段丘崖を作りました。段丘崖の高さは一
○mに及ぶものもあり、大堰川の上流ほど低くなってい
ます。
段丘崖の上は土・砂・礫などが堆積していますが、氷
河が後退した後につくられているので固まっているとは
いえません。段丘崖の下は大堰川の氾濫原で、最も固ま
っていない土地といえます。特に保津川の入り口はジョ
ウゴのような形で、洪水のときは水をのみこむことがで
きず、たまった水は一面を湖にして、千本松(明智光秀
が年谷川の両岸に植えたという松)が水の中にそびえ、
「野場立」と呼んでいたように、こうした土地には集落
が立地せず、一段高い段丘上に立地しました。
柏原は年谷川、河原町は曽我谷川がつくった段丘崖が
沖積地と出合うところに位置しています。宇津根は大堰
川の沖積地の少し高くなった自然堤防の上にあります。
三宅・古世・安町・並河などは段丘崖上に並んでいます。
一般に沖積地は地震に弱いといわれていますが、この
地震の場合はそれにあてはまっています。また段丘崖の
近くでは田に水を入れてもすぐに洩れることから「水洩
れ田」と呼ぶように、土地もよく固まっていないので地
震に弱かったと考えられます。
一方、この地震を断層と関連づけてみますと、八木町
船枝あたりから老ノ坂峠をこえて走る亀岡断層線とほぼ
平行しています。文政のこの地震は、この亀岡断層の活
動によっておこったと考えられます。地震の前ぶれの地
震は感知できるものはなかったようです。余震はAによ
れば九月二十二・二十三日ころにようやくやんだと記さ
れています。宇佐美龍夫氏はマグニチュード六・四の直
下型地震と推測しています。震央は三木晴男氏によると
愛宕山付近か、愛宕山と亀岡の中間と推定されています。
主圧力の方向は、三峠断層・亀岡断層が左ズレで、断層
の走向がここでは南北であることから、北西~南東であ
ったと考えられます。
Aではこの地震は生類ではなく、陰陽の戦いであろう
か、または汐のさしひきかわからないという記録者の意
見が書かれています。当時はナマズなどの生物説に対し、
太陽や月、潮の干満に目をむけた考えがあることは新し
い発見でもありました。
(市史編さん室嘱託)