[未校訂]寛文大地震
水害とともに、人々が恐れたものに地震があ
る。地震は、洪水や干ばつとは異なり、一度
発生すると甚大な被害を村々に及ぼした。
寛文二年(一六六二)五月一日、比良山系東山麓を震
源地とする大規模な地震が起こった。大溝領内では、[未|み]
[曽有|ぞう]の被害をこうむり、千二二軒が崩壊、死者三〇名を
数えた。このときの震度は、推定マグニチュード七・六
を記録し、高島郡内だけでなく、近江一円に大きな被害
を及ぼした。四一二人の死者を出し、九三匹の牛馬が[斃|たお]
れ、堤の決壊は二千二〇〇間にものぼった。安曇川上流
の[榎|えのき]村(大津市)は、家数五〇軒余りの村であるが、約
三〇〇人の死者を出し、隣接する[町居|まちい]村(大津市)では、
人口三〇〇人余りであったが、三七人しか残らなかった
という(『滋賀県災害史』)。
今津町域でも決して例外ではなかった。「大江保記録」
に、この年の地震の記録がわずか数行であるが書き記さ
れている。その一部を紹介すると、
寛文二年壬寅五月朔日、大地しんニて山々くずれて
死ぬ人多シ、山川水とまりて二日夕迄水来らず也、
古今之大地しんと皆々言う、人々家ニ居る者なし、
竹原ニ小屋作りて五月中住居ル、毎日少しづづ地し
んあり
とあり、余震のために、今日でもいわれているように、
竹の根の張った竹やぶの中に小屋を作って五月中は住ま
いをしていたなど、古今未曽有の地震の恐怖を物語って
いる。
この地震は、現在琵琶湖西岸地震と呼ばれ、近世の内
陸地震としては最大級のものとされているが、地震を引
き起こした活断層については、延長約五五キロに及ぶ琵
琶湖西岸の断層群が活動したものと考えられていた。
しかし、地質学的にそれを裏付けるデータが乏しいこ
とから、平成七年度から九年度において通商産業省工業
技術院地質調査所が、ボーリングやトレンチ(調査用の
溝)掘削などによる活断層の活動履歴調査を琵琶湖西岸
断層系の各所で実施した。
今津町付近では、日置前から新旭町にかけて複数存在
する饗庭野断層群の、弘川下野(日爪断層)と新旭町饗
庭(五十川断層)において、断層のトレンチ調査が行わ
れた。その結果、両者の最新の断層活動は同時期であり、
約二千八〇〇から二千五〇〇年前に活動したことが判明
した。このことは、饗庭野断層が、寛文二年(一六六二)
の地震の際には活動していないことを明らかにし、むし
ろ、饗庭野断層群北端部に近接する北仰西海道遺跡の大
規模な噴砂の発生年代(縄文時代晩期中ごろ、約二千七
〇〇年前)に対応するとみられている。
また、平成八年度には工業技術院によって、花折断層
の活動についても調査が行われた。花折断層は京都市市
街地北東部から朽木村を経て今津町の水坂峠まで、約四
五キロにわたって北北東に延びる活断層であるが、町内
では途中谷にある湖西広域環境センター西の谷中で、ト
レンチ調査が行われた。調査の結果約三〇〇から四〇〇
年前に最新活動があったことが示され、この時期に途中
谷周辺に被害があった地震は、寛文二年の地震のみが知
られることから、北部の花折断層が、琵琶湖西岸地震を
引き起こした可能性が高いと考えられている。
ただし今回の調査では花折断層南部の活動時期は特定
されず、地震災害の記録からも、南部の花折断層が、琵
琶湖西岸地震に伴って活動したとは考えにくいとされて
いる。もう一方の、琵琶湖西岸断層系についても、被害
の分布などから、南部の断層は活動したとみられること
から、琵琶湖の西部を南北に平行して走る二つの断層は、
寛文二年の地震時においては、それぞれが南部と北部で
別の動きをみせたと考えられる。
なお、花折断層北部の朽木谷の災害状況を伝えるもの
として、[天正|てんしょう]から[延宝|えんぽう]八年(一六八〇)にかけての記録
である『淡海録』には「此所ニ諸民大勢死去仕候故、
谷ヲハ人ニ埋メ」とあり、また、別の資料には、朽木
権之助領内の朽木谷では地震がはなはだしく、朽木兵部
入道立斎が死に、壊れた家からの出火で近辺が残らず焼
失したと記されている(「殿中日記」『地震資料』)。寛文
二年五月一日に死亡した「朽木兵部」は朽木宣綱であり
(『寛政重修諸家譜』巻第四一五)、当時の領主をも巻き
込むほどのすさまじい被害であったことがうかがえる。
そしてまた、同じ朽木領内である、椋川・途中谷・保
坂・角川など、檜峠を越えた花折断層最北部周辺の村々
にも、大きな被害があったことが容易に想像できる。