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項目 内容
ID J2800090
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1662/06/16
和暦 寛文二年五月一日
綱文 寛文二年五月一日(一六六二・六・一六)〔近畿北部及周辺〕
書名 〔福井県史 通史編4 近世二〕H8・3・31福井県編・発行
本文
[未校訂] 寛文二年の地震について「家譜」には「諸国大地震」
と記され、福井藩は城の御門・升形石垣・勝見口[冠木|かぶき]門
などが破損したのでその修復を幕府に願い出ている。し
かし、この地震は[琵琶湖|びわこ]西岸が震源であったため、若狭
により大きな被害を与えた。『[拾椎雑話|しゆうすいざつわ]』には小浜におけ
る地震の様子が次のように記されている。
四つ時大に鳴動し地震甚強く、人々肝をけし何の弁
もなく、世は滅するとなきさけひ、老を助け幼を引
すり、街道の場中に出す、……大ゆり二時はかりに
て、小ゆりは間もなく止事なし、地は所々割れひゞ
れ、所により大われは下より泥を吹上げ申に付、戸
板を持出、外に畳を敷居たり、
 夕方になるとようやく鎮まったが、人々は津波がやっ
て来ると騒ぎ立て、[後瀬|のちせ]山などに避難したという。五月
十五日夜にも地震があり、五月中は日に何度か余震が続
いた。またこの地震は「大小震動する事申ノさかり酉の
初迄も少もやまず、大地を打かへす斗り」で、各地の寺
社の[瓦|かわら]が落ちたという行方弥文書(平治家資8)。この地震で小浜城
では、「本丸櫓下石垣壱ヶ所、多門下石垣弐ヶ所」を初め
とする四六か所と「塀下石垣不残」「水敲石垣不残」が被
害を受けた。また家中屋敷や町家にも被害が出た
(「酒井家編年史料稿本」)。
この地震によって気山川の川口が「一丈弐尺」隆起し
ふさがったため、[菅|すが]湖と三方湖の水があふれ、湖岸の三
方・鳥浜・田井などの村が[湛水|たんすい]した。このため藩はあふ
れた水を[久々子|くぐし]湖へ通すため、五月二十三日から、「恨峠
川堀」(浦見川)普請工事を始めた。この工事は三年後の
寛文五年五月一日に完了し(行方弥平治家文書資8)、湖畔の田地が
元に戻ったほか、多くの干潟ができ新田開発が進められ
た。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 二
ページ 66
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 福井
市区町村 福井【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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