[未校訂] 寛文二年(一六六二)、大地震が湖西を襲った。この大
地震により、琵琶湖西岸の平野が広域にわたり「揺り込
み」、すなわち集落や田畑の水没現象などが生じた。地震
の八年後、寛文十年(一六七〇)に作成された「山論裁
許絵図」(南小松区有文書)をみると、そこには近江舞子
沼と雄松崎の砂州がはっきりと描かれている。比良川は
北陸道と交差する地点で流曲し、そこから分流した河道
がまっすぐ沼へ流れ込み、その南側を近江舞子沼に注ぐ
もう一本の河筋が描かれている。これが比良川の最下流
域であるとすると、当時の近江舞子沼は現在の数倍の規
模の面積があり、北は家棟川の河口部から南は北比良(古
川河口)にまでひろがっていたことになる。こうしたわ
ずか二〇年間の短期間における湖岸の急激な地形変化
に、寛文地震に伴う地盤の陥没が大きく関与したと考え
られる。
寛文二年五月一日午前十一時ごろに発生した寛文地震
は、マグニチュード七・六と推定され、近畿の内陸直下
型地震として最大規模のものであった。震央は志賀町北
小松の沖で、西岸断層系の活動と推定されている。高島
郡安曇川町の湖岸では船木・藤江・下小川に水没集落を
さす千軒伝承が伝えられ、高島郡新旭町では水深二メー
トル付近に湖中の道や水没田畑などが存在する。また、
近江舞子沼もこのときに形成されたと推定され、高島郡
マキノ町から高島町にいたる湖岸の内側に連なる多数の
内湖も、このときに生じたものと考えられる。これらの
事象は、寛文地震による湖岸部の沈降が、高島郡から滋
賀郡にいたる南北約三五キロメートルの地域で生じ、一
~三メートル程度の地盤の水没が生じたことを示してい
る。