[未校訂]○寛文二年(一六六二)五月
震源地は葛川谷町居で、町居は山崩れによって民家が
埋没し、村民はことごとくなくなったといいます。大
溝では九五%の家が潰れ、領内の民家千二十余軒倒壊、
死者は二十人に及びました。小野惣左右衛門代官所管
内の志賀、高島一円四千八百石の内、田畑八十五町余
りがゆり込み在家五百七十軒が倒壊。湖北田地もゆり
こんで低下し、山崩れも多く河川の流れがゆるくなっ
た(高島郡誌)とありますが、南船木の被害状況は明
らかではありません。高島町の永田沖にあった三矢千
軒は、この時一夜で湖底に沈んだといわれ、針江沖の
湖中や今津町北御浜内湖も、この時沈下又は拡大した
と考えられます。(※船木千軒、藤江千軒については第
一章で述べました)