[未校訂]有馬温泉関係史料
最後になりましたが、もう一ヵ所被害の判明してい
る有馬温泉関係の史料を風早恂編『有馬温泉史料』上
巻によって紹介しておくことにします。
『有馬温泉史料』上巻
慶長元年丙申
[閏|(うるう)] 七月十二日、京畿大地震、有馬ノ湯高湧シ、秀吉
ノ新殿大破ス、
「有馬縁起」(有馬極楽寺蔵)
(上略)其後文祿五年[丙申|(ひのえさる)]閏七月十二日夜半之大地震、
右之御殿〔文祿三年秀吉新殿造営〕大破矣其外山河
大地変改、天下公私之[屋敷|(やしき)]大崩、人多損、[自其砌当|(そのみぎりより)]山
之一二之湯、高湧勝事熱、旅人出入不自由也(下略)
慶長二年丁酉
六月、太閤秀吉、地震ニヨリ破壊セル有馬温泉ヲ修理
再興ス、〔以下略〕
慶長三年、戊戌
五月八日、太閤秀吉、有馬温泉ヲ修復シ、新ニ湧出セ
ル湯ニ座所ヲ建テ、湯治セントシ、是日、湯山ニ赴カ
ントセルモ果サズ、ツイデ、八月十八日薨ズ、
「一話一言」(三十、摂州湯山町古文書)
摂州有馬湯山御蔵米御算用状(注、「兵庫県史史料篇近
世四」と同じ、省略)
以上が有馬温泉関係の被害史料で、伏見桃山大地震の
二年前の文祿三年(一五九四)に秀吉が有馬([湯山|ゆのやま])に
造営させたばかりの御殿が破損したため、地震の翌年に
修復させた際の[入用|いりよう](費用)を書き上げているわけです
が、これによって御殿の建物、化粧の間、湯殿、雪隠(便
所)、湯屋、数寄屋などが破損したことがわかります。
また、秀吉の御殿が大破したほか、有馬温泉周辺の山
や川や大地、[屋敷|やしき](家屋)や人身にもかなり大きな被害
があったらしいこと、温泉の湯も湧出量が増加して熱湯
化したことなども知ることができます。
なお、この太閤秀吉の御殿跡については、現在神戸市
教育委員会による発掘調査が行なわれていて、すでに六
基の遺構を確認、近く建設が計画されいる有馬温泉歴史
資料館(仮称)において、一九九九年春ごろに一般公開
を予定しているということですから、その成果に期待し
たいと思います。