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項目 内容
ID J2800045
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1596/09/01
和暦 文禄五年閏七月九日
綱文 慶長元年閏七月九日(一五九六・九・一)〔豊後〕
書名 〔十六・七世紀イエズス会日本報告集第Ⅰ期第二巻1594年~1596年〕松田毅一監訳一九八七・九・二五同朋舎出版発行
本文
[未校訂](注、新収第二巻九~十二頁にあるものと同じものと思は
れるが、こちらの方が翻訳が日本語になっているので
掲げる)
一〇 一五九六年(九月十八日付、都発信)
十二月二十八日付、長崎発信、
ルイス・フロイスの年報補遺
豊後の国(の地震と津波)について
 豊後で起こった地震は非常に大きくて恐るべきもので
あり、もしキリシタンたちがそこから来て話さなかった
なら(事実とは)信じられぬほどのものであった。我ら
は非常に立派で、豊後のキリシタンの中ではもっとも古
いブラス(という教名の信徒)の来訪を待っていたが、
彼はやっと非常な危険を免れてここへ来た。彼はこう言
った。「私は今でも〔その時は地震から二ヵ月が経ってい
たが〕十分に平静さを取り戻していません。また故郷が
崩壊しているのを見て生じた恐怖を払い除けることもで
きません」と。
 府内に近く三千(歩)離れたところに、沖の浜と言わ
れ多数の船の停泊港である大きな集落、または村落があ
り、この地に因んで沖の浜のブラスと呼ばれているこの
善良な男は、他の諸国から集まって来る種々の人々に自
分の家を宿泊所として提供していることから、豊後では
非常に有名である。
 彼は(地震のことを)こう言った。或る夜突然何ら風
にあおられぬのに、その地へ波が二度三度と(押し寄せ)、
非常なざわめきと轟音をもって岸辺を洗い、町よりも七
ブラサ以上の高さで(波が)打ち寄せた。このことはそ
の後、或る非常に丈の高い古木の頂上によって知られた
ことである。そこで同じ勢いで打ち寄せた津波は、およ
そ千五百(歩)以上も陸地に浸水し、また引き返す津波
はすべてを沖の浜の町とともに呑み込んでしまった。こ
れらの界隈以外にいた人々だけが危険を免れた。それに
してもあの地獄のような深淵は、男も女も子供も雄牛も
牝牛も家もその他いっさいのものをすべていっしょに奪
い去り、陸地のその場には何もなかったかのようにあら
ゆるものが海に変わったように思われた。
 ブラスはその時妻や子供や召使いたちと家にいたが、
同様な事態を頭の中で考えることができる以前に、一瞬
のうちに木造であった家もろとも津波にさらわれている
のが判った。妻は子供たちといっしょに溺死したが、彼
は泳いで難を逃れたものの、どのようにして助かったの
か判らなかった。なぜなら彼は波の力でその場所から非
常に遠方へ運び去られていたからである。ブラスはすで
に家が震動し始めた時、己がキリシタンの家族全部とと
もに声をあげてイエズスとマリアの至聖なる御名を唱え
始めた。近くでは、或る異教徒の婦人たちが阿弥陀の加
護を願っていたが、彼女らはついにブラスに向かって、
「私たちを危険から救って下さい」と何度も何度も願っ
た。そこで彼はこう答えた。「もしあなたたちが[悪魔|サタン]の加
護を願っているのなら、私はどうしてあなたたちを自由
にすることができるだろうか」と。そこで婦人たちは彼
といっしょに大声を上げてイエズスとマリアの御名を唱
えはじめたので、彼はこの災難に際して非常な迅速さで
彼女らのために手をのばして近くの家の材木の幾本かを
渡したので、イエズスとマリアの御名を唱えた彼女らの
中の幾人かは生命の危険を免れた。そして他の多数の異
教徒たちがキリシタンになろうと約束した。
 沖の浜近くで、同様な海難に遭遇した他の四ヵ所、す
なわちハマオキ(Fama oqi)、エクロ(Ecuro , * Cucsu?)、
日出(Fingo, * Fuigi)、カシカナロ(Cascicanaro, *
Caxeranari)、それに[佐賀関|サガノセキ]の一部が、人々の言うところ
では冠水したとのことである。また浜脇ではキリシタン
はただ一人しかおらず、彼だけが皆の中で助かった、と
いう。
 これらの停泊港、とりわけ沖の浜には多数の船が停泊
していたが、それらの多くは太閤のもので、現在彼によ
って領有されている諸国の貢物を運送するために豊後に
来ていたのであった。これらの船の多くは、すでに積荷
を終って出港の時を待っていたもので、また或る船はす
でに積荷を始めていた。これら(の船)以外に、そこに
は種々の商人たちの小舟が無数に停泊していた。ブラス
はこう言っていた。「私はこれらすべてがあるいは破砕す
るか、あるいは同じ場所で沈没してしまって一隻も損傷
を受けずにはすまなかったことを確認した」と。
 府内の[市|まち]は、いつも強情で頑固な頭をもつ人物の所有
であった。(イエズス)会の司祭や修道士たちがこの市に
住み始めてから四十三年になり、彼らはすべての異教徒
の貧困者たちのために病院を建てて、彼ら(貧困者たち)
が病気になった時、そこに入院するようにした。彼らは
教会をも(一つ)建てて、そこで説教が行われ、ミサ聖
祭やその他の教会の祭儀が行なわれるようにした。キリ
シタンの中では少数の者が、(府内の)[市|まち]の出身者で、皆
は教会に近い或る露路に居住していた。国主フランシス
コ(大友宗麟)は彼らがキリストの教会へ集まるなら、
己れにとり非常に喜ばしいことだと意向を示し、また彼
らの洗礼に際しては、己れ自ら代父役になった。しかし
仏僧たちや、府内の市民自身は善良な国主(フランシス
コ)を苦しめた。また我らの(イエズス)会も、この市
以上に大きな無礼と公然たる侮辱を受けたことはなかっ
た。なぜなら老人たちは言うに及ばず、若者や少年たち
までが両親に教唆され悪魔に煽動されて、我らの同僚た
ちが公衆の面前に現れるたびごとに、彼らは我らの主な
るデウスを冒瀆し、司祭たちに大声をもって襲いかかり、
国主フランシスコ(大友宗麟)がキリシタンとなって以
後は、この邪悪な風習は彼から非常に厳しく禁止された
にもかかわらず、キリシタンやキリスト教会への反感を
やめなかったからである。彼らは最初何回も夜間に我ら
の司祭館に火を投げ込んだ。或る者は司祭館へ矢を射込
み、或る者は教会や家屋に投石した。もっとひどいのは、
彼らが死者や子供たちの手や足を教会の中へ投げ込んだ
ことである。しかもこの機会に仏僧たちは、我らが人間
の肉を食べるために人々は我らによって惨殺されている
と四方に言い触らし、またその他の嘘の噂をして我らの
名誉を毀損していた。しかし至高至善であり正しい審判
者であるデウスは、こう言っておられる。「仇は私がとる、
報いるのは私である」(ローマ書十二章十九節)と。こう
して主は、彼らを種々のひどい苦難に遭わせ給うた。な
ぜなら(府内)は豊後の国のすべての町でたしかに第一
の市であり、多数の富裕な商人たち、無数の偶像の社寺、
最高の権力をもった仏僧たちの群れで構成されていた
が、数年とたたぬ間の諸戦争、疫病、飢餓、火災その他
の限りない災禍によって荒廃させられたからである。そ
れゆえエレミアがエルサレムの市について「人々に満ち
溢れた町ひとりが、何と寂れていることか」(哀歌一章一
節)と言った言葉がこの(府内)の真実に非常に適合し
ている。(府内)は全(豊後)国の全般的な(津波による)
強奪とともに、このような荒廃に至ったとはいえ、ここ
数年来隆盛になり始め、またそれぞれの領国へ離散して
いた市民や下層民の数は増加し始めたので、その([市|まち])
では五千戸の家を数えるまでになっていた。しかし今や
デウスの隠れた審判によって、この地震で非常な荒廃に
帰し、五千戸の家屋のうちわずか二百戸が残ったと伝え
られている。また偶像崇拝者たちの寺院は二つしかなか
ったが、それらもまた倒壊した。大いなる徳を備えたバ
スチアンという名の或るキリシタンの小さな家があり、
司祭某は布教中は同家でミサを献げるのを常としていた
が、異教徒たちのがそうであったように倒壊した他の多
くの家々の中にあって、(彼の家)は完全に危険を免れた。
 四千名以上のキリシタンが居住しており、またかの善
良な老人ジョランが殉教の栄冠を受けた高田の町におい
ても同じ頃に地震があり、海はある大きな川を横切って、
およそ三千(歩)の境界線まで進み、その進行に際して
は非常な騒音を出したため海辺に住んでいた人々は危険
を逃れるためにわが家を捨てて田畑や山へ逃げた。その
浸水は長くは続かなかったが、ひどい水害を与えずには
水はもとの場所へひかなかった。なぜなら多数の家が倒
壊し、また多くの人々が水死したからである。
 この天罰はただ異教徒たちだけに対して行なわれたよ
うに思われ、或る高田の善良なキリシタンは、その地で
幼児に洗礼を授けたり、使者を埋葬したり、デウスにつ
いての説教をキリシタンたちに行なうことを務めにして
いたが、彼はこう言っていたからである。それらの地方
には多数の村落があり、或る所はキリシタンたちだけが
住み、或る所は異教徒とキリシタンたちがともに住んで
いたが、異教徒たちの家屋だけが、幾人かの死者を出し
ながら倒壊したのに、キリシタンたちの家屋はあらゆる
被害を免れて無事であったからである、と。
 国王太閤の徴税役の頭目をしている或る異教徒は、性
質と習慣が邪悪で、府内の市に居住しながら妾とその一
人息子をもっていた。家が倒壊した時、この(妾)と息
子は押し潰された。しかし彼はもう一人息子をもってい
たので、同様な事件で(息子)を失うことを恐れると、
高田のキリシタンたちのもとより安全な避難所はないと
考えて、この(地震の)嵐が鎮まるまでキリシタンたち
のもとに(息子)を預けた。
 府内から一日行程だけ離れた所にあった[由布院|ユフイン]〔そこ
はかつて、我らの同僚司祭某が数年間その住民の改宗の
ために活動し、漸次聖なる洗礼を授かった人々のために
何らかの援助をした〕と呼ばれた或る地方では、戦乱に
よって領国が荒廃されて以後、幾人かのキリシタンの残
存者たちが留まっていたが、魂の救済を得ることでは冷
淡になって、このことについて他の善良なキリシタンた
ちから非難を受けたにもかかわらず生活を改めなかっ
た。同地に迫っている山の一部が、この地震によって、
少数の者を除いて彼らのほとんどすべてを圧死させた。
 以上のことは、これまでの我らの司祭たちや、自分の
眼ですべてを見た、他の信頼に値する人々の書簡から集
めることのできたものである。
 願わくは、我らの主なるデウスがこれらの不思議な兆
候によって、人々の心にデウスの御威光に対するより大
いなる畏怖と愛とが、またデウスの諸律法のよりいっそ
う熱心な遵守が励まされるよう、その御恩恵を分かち与
え給うように、と希求する次第である。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 二
ページ 33
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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