[未校訂]第四節 明治年代の災害
一、明治二十七年の庄内大地震
榎木で三戸倒壊、亀裂縦横に走る
日清戦争の起った明治二(一八九四)十七年、この年は山形県では、
相継いで大災害に見舞われた。二月に山形市で大火、千
二百八十四戸焼失、八月二十五日大洪水(鳥海山系、飽海)
そして十月二十二日の庄内大地震と続く。この近世庄内
を襲った地震で最大の災害を被った大地震は夕刻午後五
時三十七分に発生した。震源地は酒田河口新堀付近とい
うから正に榎木では直下型地震とも言うべきもので、「両
羽地震誌」によると「庄内のうち振動最も甚しきは、酒
田、松嶺、南平田、袖浦、新堀、押切等の町村」、とあり、
「東田川郡震災実記」によると余目町にあっては、大字
余目、大字榎木、大字平岡、大字千河原、大字槇島、大
字堤興屋等は最も激震なりとあり最上川沿岸地帯が激し
かったことが判る。同震災実記によれば、大字榎木は地
裂非常にして長さ数拾間巾三、四尺に至る。大地裂数十
條其方向は多く西方より東方に走るものの如し随て噴水
も非常なり、其中最も高く噴水したるは殆ど丈余に至り
一時は天地相易ゆるの思いありしと言う。該大字(複木)
に於いて幸運に死傷を免れたるは北川寅治妻ふし同七男
寅蔵を懐きて縁にありしか轟然一震家屋潰倒する途端に
ふしは縁外五六尺の所に跳付けられ生命を全くするを得
たりと。
最も悲惨に死したるは大字千河原、高橋寅蔵及同家族
にして家屋潰倒の際一家六人皆下敷となり号泣救いを乞
うも容易に之を出すことが出来ず、其中内部より火災発
生し見る見る焼死せり(抜粋)
余目村に於ける死傷者(町史年表)
死者千河原一二、平岡五、槇島三、廿六木一、余目一、
計二二名。男八。女一四。
傷者 男一五、女一五、計三十名。
全潰戸数一六四、半潰戸数一二五、焼失戸数七、となっ
ており、榎木は川端としては死者もなく割合大被害をま
ぬがれたというべきである。
茶の間の真ん中に大亀裂、肥コイツケ塚の上に泊まる
当時十九才であった編者の祖母はこの大地震の恐怖を
よく語ってくれたものだった。
「丁度豆からみの頃で、家の土間にはどっさり豆を入
れて豆からみをしていた。暗くなってきてランプに火を
入れ、女衆は夕食の支度に掛っていた。突然ゴーという
遠雷のような大音響がしたかと思うと、ガリガリミシミ
シという家鳴りと共に大振動が来てしばらく止まらず、
家がつぶれるのではと思って外へ逃げようとしたが立っ
て歩くことが出来ず、はって進むのがやっとだった。父
が「地震だ!早く火を消して外へ逃げろ!」という声で
大地震であることがはじめて判った。飯を炊いていた母
がかまどに水桶から水を掛け、父がランプを消してくれ
た。家の前に出たら、人々のホーエ、ホーエという叫び
声と壁の落ちる土煙で何も見えず、オロオロしていると
足元に水が来た。見ると家の茶の間の真ん中あたりに長
右エ門の方から善左エ門の方へ大きな亀裂が走っていて
その亀裂からものすごい水が噴き出しているのだった。
父が「こぢげ」の上さ逃げれ!というので急いで東方
の堆肥の上に登って一息つくと(えちこ)へ入れていた長
女のみゆきを忘れてきたことに気付き、半狂乱になって
家へ引き返して茶の間へ行ってみると亀裂のためか畳が
盛り上がっていた。えちこから、みゆきを抱き上げて庭
の豆の上を転げるように走って、肥塚え上りやっと一息
ついたら又グラグラと振動が来た。人々は一斉にホーイ、
ホーイと声を出して呼合っている様は忘れられない。村
では幸い火事にならなかったが、三軒つぶれた。暗くな
ると四方の空が真っ赤にそまり、方々で大火災が起きて
いるのが判り、全く恐ろしかった。時々余震が来て、そ
の度に方々からホーイ、ホーイという声が上った。肥塚
の上に二晩程泊まった。井戸はほとんど役に立たなくな
ったが、東側では家の井戸、西側では三右エ門の井戸が
何とか使用され村中で使った。建物は傾いたり柱が折れ
たりで、余震が収まってから大工や仕事師に頼んだが廻
り切れず、村中直るまでに一年ぐらい掛かったのではな
いか。あの恐ろしさは何年経っても忘れられない。」と折
ある毎に話してくれるものだった。