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項目 内容
ID J2700880
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1894/10/22
和暦 明治二十七年十月二十二日
綱文 明治二十七年十月二十二日(一八九四・一〇・二二)〔庄内地方〕
書名 〔五百年のあゆみ落野目村史〕○酒田市新堀落野目落野目五百年史編集委員会編H4・12 落野目治会発行
本文
[未校訂]三、地震
)一( 明治の庄内地震
 昔から恐しいものの一つに地震を数えるが、何の予告
もなしに突然おそうので油断が出来ない。とは言うても
明治二十七年の地震から昭和三十九年の新潟地震までは
七十年の間隔があったし、その前安永九年の大地震から
明治二十七年庄内地震までは、実に百十四年目に当る。
忘れた頃におそうと言う事か。
 山新昭和五十一年発行のニュース一〇〇年の中に明治
二十九年当時の記事として次の様に記載しておる。明治
二十七年十月二十二日午後五時三十七分頃晩秋の日は短
く稲揚げに忙しい農家も夕食についていた。突然落雷の
ような音とともに大地がひっくり返ったかと思われる程
激しく揺れ動いた。たちまちあたりは大木の折れるすさ
まじい音、泣き叫ぶ声、助けを求める悲鳴がみなぎり、
ほうぼうから火の手があがって一瞬のうちに一帯は地獄
絵図と化した。当時の新聞はそのもようを次のように記
している。「ああ大柱ここに折れ、地ここにくずれる大異
変。楼上倒壊して楼下を圧し家屋はさながら将棋倒しの
如く。(以下略)」後に両羽震災取調所がまとめた「両羽
地震誌」が災害を詳しく伝えている。まず七千三十九人
の死者が出たのをはじめ破壊家屋六千三百戸、全焼四千
四百八十八戸、半焼千七百五十一戸という大変な被害だ
った。
 当日朝から快晴の天気だったが、前日の二十一日に各
河川の水がぐんぐん減り、また急にイワシが獲れ出した
りして、なにか起こるのではないかと人々を不安がらせ
ていたとも述べる。「マグニチュード」が幾らで、どの位
の震度だったのか、そんな観測の始まる、はるか以前の
こととて知る由もないが、実査委員の報告に、浄福寺が
縦揺れだとある所を見ると上下震動で震源地のごく近い
ことが察しられる。新堀付近が震央だったというのは誤
りではないかも知れない。最初の震動がもっとも激しく、
それから三十五分間ほど絶えず余震が続き、十一月十五
日までの二十六日間、実に二三七回の余震を数えたと記
録されておる。一帯の人たちは生きた心地もない不安と
恐怖の日々だったろう。
以上山新ニュース一〇〇年から
この地震新堀地区の災害は(新堀公民館文書に依る)
即死 男十四人 女二十一人 計三十五人
内訳 新堀村 男十人 女十五人 計二十五人
丸沼村 なし
落野目 女一人 計女一人
十寸穂七番地佐藤丑五郎養母、民 天保八年一月十二
日生
板戸村 男二人 女三人 計五人
局村 男一人 計一人
門田村 男一人 女一人 計二人
木川 女一人 計一人
潰家 一七三戸
内訳 新堀村 七三戸 落野目村 一七戸
板戸村 三六戸 局村 一一戸
門田村 一五戸 木川 一四戸
潰家焼失 新堀本村のみ 一二戸
 右は昨二三日不取敢報告に及候処猶又各大字取調候は
前記の通りに有之候て半潰に及ぶ土蔵、小屋等の潰屋其
の他怪我人等は目下取調べ中に有之前件に付ては一村連
帯実に一戸として満足をなしたる家屋これ無く土蔵米倉
等の鍵を潰家に置き或は紛失鍋釜は潰家の下にある等到
底飯炊く能わず人心恐々静かならず依って非常取扱を以
って焚出し仮屋出漸く昨二十三日午前第十一時頃に於て
行渡候様の有様にて殊に老者小児等空腹を告げ、実に見
るに不湛(ママ)事に有之前述の如くにて引き続き焚出致居候。
前記の諸件はなお詳細取調べ続申上に可及候先は此の段
及上申候也
明治二十七年十月廿四日
新堀村長 山木孫左エ門
東田川郡長 相良守典 殿
人命救助顚末書二通(落野目分)
顚末書其の一
 私共震災危難に係る、山木栄太郎外四名を救いたる顚
末左に
 明治二十七年十月二十二日午後五時三十分頃、俄然西
南に方り鳴動すると同時に地大いに震動男女驚愕僅に危
険を免れ家出せし処計らざりき同字山木孫左エ門家屋崩
潰内に男女幼児の泣き声幽かに聞こえたるに驚き私共両
人馳け付け百方手を尽し家根をこじあけ、梯子を入れ山
木栄太を始め同人妻サガ、長女ノブ、長男武雄及び孫左
エ門五男宏雄以上五人を引き上げ救いたる事実相違無之
候。最も山木栄太は右の腕傷き其の他四人は別条なき体
に御座候右救いたる顚末として陳述候也
明治廿八年十二月十二日
山形県東田川郡新堀村大字落野目
吉泉治平 ㊞
同上 南間百吉 ㊞
顚末書其の二
 明治廿七年十月廿二日震災に罹り倒壊之際冨樫留外弐
名を救助したる顚末左に申上候
一、自分儀明治廿七年十月廿二日午後五時三十分頃にて
候成。俄然劇震起り自家は家屋は傾向を生じ而るに付
他は如何と駈走せしに斗らざりき同字七十番地平民冨
樫繁治妻留同人長男鷲松長女み弥ゑ之三人潰家の中に
苦心を発し居候直に屋根に上り、模寄の箇所を切り抜
き梯子を以て通路を開き、右三人を救助したる儀相違
無之候也
東田川郡新堀村大字落野目字十寸穂九十弐番地
冨樫清右エ門 長男
明治廿八年一月十三日 冨樫寅蔵㊞
 幸い落野目では火災には至らず只刈分一番地の道路は
地割が甚々しく、田圃の方では新田の板戸地境辺の地割
れが、もっともひどかった由、その為近辺の耕作者は田
圃の水管理に苦労をし、京田川の洪水の時には堤防はあ
っても地の底から水がむくむく吹き揚げるものであっ
た。
 昭和四十八年圃場整備換地の時この一帯えの換地説明
には京田川の改修其の後の苦竹沼埋立に依って水管理は
普通田に成ったからと話し合い漸く納得して戴いたが、
これは明治二十七年大地震の後遺症と言いたいが、長い
年月落野目を悩まし続けた地震である。
 当時の新堀村長山木孫左エ門が新堀村民一同に諭告し
た文章を見ると、「お互に助け合い、ただ、ただ、心を心
を強くもち、頑張ってもらいたい」と諭している。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 別巻
ページ 1029
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 山形
市区町村 酒田【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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