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項目 内容
ID J2700878
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1894/10/22
和暦 明治二十七年十月二十二日
綱文 明治二十七年十月二十二日(一八九四・一〇・二二)〔庄内地方〕
書名 〔平田町史〕○山形県平田町史編纂委員会編S461230 平田町発行
本文
[未校訂]明治二十七年庄内大地震
(高橋鍬吉氏の実録その他より)
明治二(一八九四)十七年の大地震前、旧七月二
十四日遊佐方面に大洪水があり、同日夜明方から日向川
大氾らんし、凡そ三十人も溺死者があり、日向升田でも
四人死んだという。
 草津から下福山、大久保辺の田畑が多く潰家、倉も流
れたが青沢川は大した事もなかった。北俣川は土堤から
水越さず、南方程、雨量が少なく被害も軽かった。
 其の後は雨がなくて、微雨が少しあったが、旧九月下
旬迄、一、二回ばかり。稲上げは上々であった。
 天気のためか、川水は大の渇水になり、北俣川は小堰
の様になり、横ぎるに足をぬらさない有様であった。円
道辺では井戸水も不足であったという。日向升田、飛鳥、
砂越、松嶺、内郷、酒田辺の井戸水は四五寸位に減じ、
日向升田辺では鳥海の破裂でもあるかと戦々恐々の有様
であった。
 或人が昔唐土と戦争した時も天気は晴れ続きであった
そうだから、此の度も日清戦争中であるから天気がよい
のだろうと言ったりした。
 地震のあった日、飛鳥辺の井戸水は大いにまし、平時
より一層多くなった。田川郡も同様であった。雨も降ら
ないのに川水も多くなったが、地震の前兆とは誰も気の
つくものがなかった。星の変動も同様心づくものはなか
った。
 明治二十七年十月二十二日(旧九月二十四日)午後五時
三十七分大地震となった。
 鹿島辺では扉、障子等三、四本又は四、五本も倒れた。
すわや地震という間に、皆戸外に飛出し、肥塚に集り、
其の後如何なる事になるかわからないので、人々は恐々
として安い心がなかった。
 昔から、始め大地震動、その後は初めにます震動がな
いものである事等知る人もなく、又昔の話も知っている
ものがないので、此後どうなるかと只恐れおののき、大
地震などとは大体ないものと思っていた。
 当時家を建てる人等は、柱の大きい家は暗いとか、柱
数の多い家は住み悪いとかで、昔の作り方を変えて建て
たものが多かったが、大地震で柱の不足な家は大いにい
たんだ。
 大地震で恐怖のあまり、皆肥塚に上がり一夜を明した。
翌日震動が止むものと思いの外、微震であるけれども一
時間に二、三回或は三、四回づつ絶え間がないので、飯
も外で炊く事五、六日、又小屋に寝ること十日以上、十
四、五日のものもいた。
 田川郡黒森は甚だ強く、屋敷は二、三尺も埋もり、又
三、四尺のひびがあり、大きいのは六尺位もあったとい
う。
 次に飛鳥、砂越でその次は松嶺、内郷であった。平田
の里はそこそこ潰れ、新堀の最上川ぞいも多く潰れた。
松嶺片町辺惣潰れとなり、新町から出火し、肴町辺が焼
け、人も死んだ。
 酒田は焼けた戸数千二百余り、いろは蔵は焼け、人も
多く死んだ。酒田は飛鳥、砂越より地震は弱く潰れた家
が少なかったが、多く焼失したのである。
 飛鳥神社は傾斜し修理するのに百円以上も要した。随
神門は潰れ、仁王堂も潰れた。飛鳥では作蔵が傾斜、万
四郎、清十郎、徳右エ門も傾斜、残り惣潰れとなった。
 砂越では徳左エ門、鍛冶、文七、源八、其の外二軒傾
斜のみで、残りは惣潰れとなった。倉其の他の小建物は
傾斜ばかりで潰れたものは少い。
 砂越下畑大ひびわれ、青砂、白砂が吹き出した。ひび
の幅は一尺から二尺位であった。
 山中河内は潰家がなく、楢橋辺は少し潰れ、金谷、山
谷共二、三軒ばかり、北俣、中野俣、田沢、坂本とも潰
家なし、日向升田、青沢辺も潰家なし、山中は地盤もよ
く、木材の良い為か、建物の破損は少なかった。北俣辺
の道路又は宅地には、幅二三寸より五寸位のひびが出来
て、草山は亀裂を生じた。家の小壁、土蔵の壁いたむ。
本宮で板戸の裂けたものもあったが、鹿島は神社の為か、
海ケ沢、丸山あたりより建物はいたまなかった
(中略)
 地震の翌日に津波が来るだろうとの風聞があったの
で、飛鳥、砂越、内郷辺の人は楢橋山、横根山に逃げた
ものがあった。津波は、たらいに水を入れ、動かせば水
がそのふちから越える様なもので、大地震が止むや否や
来る事があるが、一、二日過ぎてから来るのでないとい
う。
 文化の地震も、二日もすぎてから津波の風聞があって
山にのがれ、安政年中江戸の大地震の時も二日も過ぎて
から、津波の風聞があり、人々が皆家を棄て逃げたとこ
ろ、その家財を盗まれたのが多かった。これは全く盗賊
の計略であったという
 地震後は種々な憶測がながれて、人々は恐怖におのの
いた。即ち、家の潰れる様な大風が来るとか、始めより
大きな地震が来るとか、津彼が来るとかであった。
 十月二十二日(旧九月二十四日)午後五時三十七分の大
震動後、小震動三、四回あり、次に又大震動があった。
これは始めの震動より少し強いかと思われる位であっ
た。次に十時から十一時の間に小震動十三回あったとい
う。此の夜肥塚で家内一夜をあかした。
 以下記録の大要を記する。
 旧十月一日新十月二十九日から十月二十九日新十一月
二十六日迄の天候、震動数、時間の記載は丹念に記され
ているが、旧九月二十五日新十月二十三日、即ち大地震
のあった翌日から六日間は天候と震動数なく、此夜肥塚
に上り、小屋に宿す。と、記されているところから一週
間は人心が動揺して記録の余裕がなかったものであろ
う。旧十月一日から毎日の天候震動の強弱回数が記載さ
れている。
 旧十月一日から一ケ月の震動回数八十三回最少一回、
最多九回。
 旧十一月一ケ月に三十回、旧十二月に十五六回と次第
に回数は減少した。十二月二十二日の朝半頃強震があり
皆戸外へ出た。この日五回。翌二十八年になり、一ケ月
二、三回位又は三、四回位、震動ごとに鳴動した。
 旧六月七日朝半頃強震一回次に二回の微震があった。
東田川郡
死亡者 一七二人
負傷者 九〇人
焼失家 三一戸
潰倒家 八六二戸
半潰家 三五五戸
西田川郡
死亡者 六二人
負傷者 七〇人
焼失家 四五戸
潰倒家 一二一戸
半潰家 不詳
飽海郡
死亡者 四四五人
負傷者 四二五人
焼失家 一三三一戸
潰倒家 一四七二戸
半潰家 不詳
 明治二十七年十月二十二日午後五時三十七分但し日本
標準時
 飽海郡東平田村大字生石字上坂高雄山麓から泥水噴出
し、田畑八町歩余り被害
 酒田、死亡者一五二人、負傷者二一四入、焼失家一二
七八、潰家一八四戸、焼土蔵五五八棟、破壊蔵九一一棟、
舟場町は数十ケ所から砂、水が噴出し、水量四尺に及び、
地震後に砂穴二丈位、家二軒転倒した。(後略)
(高橋鍬吉氏は前に文化・天保の地震記録をのこされて
いる鹿島の高橋与左エ門家に、文久二年十月二十五日
に生まれている。当時写真機や望遠鏡が、まだ酒田、
鶴岡辺にもない頃、東京から直接取り寄せ研究した程
の知識人であった。以上原文を口訳し、要約して記録
して見た。)
山形県八十年史による被害状況は次の通りである。
(前略)十一月二十一日県議会を開き、県議会実査委
員は翌二十二日早朝山形を出発して大石田に至り、ここ
から便船に乗じて午前十一時半最上川を下り、松嶺に着
いたのは翌二十三日午前一時半であったという。
委員によって報告された被害状況
一、松嶺方面。役場の被害は著しき異状を呈せざるも、
その隣なる小字校は殆ど全部壊倒し、頻りに職工を督
して修繕に着手せしも、新に増築したる部分は全く壊
倒せるにより多少の日時を要すべし、民家の二間以上
陥落したるもの非常に多し。
一、南平田方面。道路の亀裂甚だしく噴泥推積を為し、
誤って車輪を没する恐ありて危険甚だし。また川、田
畑も亀裂陥落の箇所少しとせず。大字飛鳥、砂越の如
きは四分以上の倒壊の惨状である。
一、一条村より観音寺に達する線は、八月中の洪水を以
て日向川の被害尚復旧せざるに、今回また震災に罹り
田畑一面に砂利を埋め一見荒蕪地と化す。
一、酒田附近。飽海郡役所大破、警察署倒壊。酒田市街
恰も茫たる焦土に化し、街路の区画分明ならざる所多
く、舟場町の如きは巡視当時に於て、焼死者の異臭鼻
をつき、その他陥落の結果、噴出したる泥砂四方に散
布せるあり、地盤の高く凸出せるあり。或は凹みたる
あり。最上川を隔てた宮の浦方面は、飯盛山は二丈八
尺余陥落、その麓に近き人家二戸陥落して洞穴中にあ
り。当時此処より水を噴出せしこと高さ二丈余に及び
たりという。
 また貧民施療病院は収容患者頗る多く、山形市居住服
部医士はとくに出張して、施療に尽力することに感賞を
覚え、学枚は非常に傾斜して、僅かに杉材、或は丸太を
以て之を支え、体操場は全壊に及び、事務室また潰倒せ
り。当町唯一の伽藍浄福寺の潰倒は、横倒れで土崩瓦壊
せるのみで、地震の如何に強度でありしか、想像の外な
りと認む。寺町の救難所には目下三百七十余名の被救助
者収容されたるも、備荒儲蓄の救助に制限あるを以て、
もはやその途絶え、爾後は酒井伯の恵与と本間家の義捐
等に頼るの外見込なしときく。日枝神社の救済所は一層
惨状の度甚だしく、今や漸く秋冷に向ひたるに、尚単衣
を着せるものあり。若し極寒の候に至れば如何にして凌
ぎ得べきや、実に思い半に過ぐるものあり。(中略)
 これを要するに震源地に近い地区の惨状は、実に予想
外にして、毛髪悚しょうぜん然たらざるを得ざるの感あり、短日月
の調査、よくその実態をつぶさにすることを得ざるをい
かんとするが、諸君幸に諒せられよ。
酒田市誌による被害状況
 明治二十七年十月二十二日午后五時三十七分初震、五
十七分間、酒田全焼一、七四五戸、うち家屋一、二九〇
戸、社寺二二棟、土蔵三二八棟、板倉一〇七棟、全壊二
四〇棟、半壊九三棟、破壊三二九棟、死亡一六二人、負
傷二二三人。
 庄内大地震の震源地は、東平田村生石の高雄山麓とも、
最上川口に近い飯盛山、黒森辺ともいわれているが日本
甲午(明治二十七年)大地震誌による被害状況
酒田
松嶺
南平田
広野
余目一
新堀一
押切
全焼
全壊
半壊
破壊
死者
負傷
一七四七
二四〇
九三
三二九
一六二
二二二
一七二
二九四
二一七
四一
一五
一三三
二四
四七〇
四〇七
四四三
八六
六〇
一七九
一三
四九

一七三
七五
二一

一二
一二七
一六五
三五
二八

一三三
三三
二八
一八
十一月十五日迄二十五日間震動一一五回。
海底ではなかろうか、しかし最も激しい地帯は最上川下
流沿いで、飛鳥、砂越附近と見られている。
 前表の通り、南平田村では全焼二十四戸、全壊四百七
十戸、半壊四百七戸、破壊四百四十三戸で死者八十六名、
負傷者六十名を出し、当町開びゃく以来の大惨事であっ
た。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 別巻
ページ 1023
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 山形
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