[未校訂]第六章 災害とのたたかい
第一節 酒田地震
明治二十七年十月二十三日午後五時三十分ごろ、東北
地方に亘る前代末聞の大地震が起った。世に云われてい
る「酒田地震」で酒田町は非常な惨害を受けたが、東郷
村では猪子が特に被害が大きく、次に尾花・成田新田・
東沼の順であった。
「東郷村治覧要」には、次のように記されてある。
「明治二十七年十月二十三日数県ニ亘ル激震而カモ当庄
内ハ其中心ニ当リ本村ニ於テモ前古未曽有ノ大震ニ罹リ
被害ノ概況左ノ如クニシテ最モ被害多キハ大字猪子ニシ
テ次ヲ神花トシ成田新田、東沼之ニ亜ク全村中総テ被害
セリ
土地ノ膨起及陥落、大字猪子字旭谷地渡船場ヨリ北方
四百間余赤川堤防及宅地幅壹丈余深サ数十尺ノ大亀裂ヲ
為シ或ハ噴水ス、大字神花字前外川原(村東)堤防四百間
余陥落畑ハ幅二間長五、六十間位ツツ数十箇所亀裂及宅
地学校敷地ニ係り大亀裂ヲ生シ東郷学校旧校舎ハ倒潰ニ
至ラサルモ大破ヲ受ケ其他同字畑二ケ所亀裂及膨起ス数
十尺ノ底ヨリ噴水或ハ青砂又ハ木葉ヲ吹出シタリ、大字
青山字外川原及中島ニ亘り幅五尺深サ数十尺長百間余ノ
亀裂其他所々亀裂或ハ膨起或ハ陥落ノ点々生シ噴水又ハ
砂小柴木葉等ノ吹出シタルモノ挙ケテ数フヘカラズ。
建物ノ被害、土地ノ亀裂ト同時ニ建物ハ全部動揺シタ
ルヲ以テ或ハ倒潰或ハ大破又ハ傾斜ス就中住屋ノ甚タシ
キルノヲ挙クレハ左ノ如シ
公共物被害猪子小学校々舎一棟
右ハ全潰ニ至ラサルモ殆ト其用立難ク改築ノ止ムナキ
ニ至レリ
此惨状実ニ人事ノ極ニ達シ子ハ親ニ孝心ヲ絶エ親ハ子
ノ慈愛ヲ捨テ自克ノ外他アルヲ知ラス戦々恐々タルモノ
ニシテ十余日ノ間屋内ニ入り一睡ノ宿リヲ為シ能ハス、
竹林又ハ堆肥等ノ上に座シ只タ生命ヲ惜ムノ外念ナク
経過セリ、追・(々カ)震動止ムニ随ヒ始メテ家計ニ思ヲ起スモ
居ルニ家ナク食フニ糧ナク路傍ニ彷徨スルノミ慈ニ於テ
本村長救済ノ必要ヲ認メ有志ニ謀り義捐ノ募集ニ努メ其
結果良成績ヲ得救民ハ之ニ倚り露命ヲ繫クコトヲ得タ
リ。」
琴平神社の境内に地震災害の復興に対して有志連名に
て頌徳碑が建立されている。
頌徳碑
恩を受けてその後々迠忘れぬは中々に難むずかしきわけなれ。
明治廿七年神無月廿日余二日の暮合時に雷の嶋りはため
く如き響するや否、大地一時に震ひ動き物のくだくる音
いと凄すさまじければ吾人共にあわてふためき外面に出ればあわ
れ一刹那、家々は皆ゆり倒されて又元の姿だになし。思
ひ設けぬ事にしあれば、雨露を凌しのぐべき便もなく、まし
て生業せんやうもなけれバ、此末如何になるなむと安き
心もなかりしを、村の長為し給ふ小川又次郎主は更也、
太田半十郎、鈴木与惣左エ門、佐藤卯之吉、佐藤菊三郎、
成澤清太郎の各大人連、さてハ誰彼情深き人々の恵にて、
家を造り生業をも営む事を得たり。
実に之ぞ枯木に花咲かすとやいわむ。中にも小川、太
田の両大人は家をも身をも打捨て尽し給ひし事、文にも
言にも及ばず。思へば人々の情の程いと有難しともいと
尊し。然ば今事の由をかく石に物して永く其の徳を仰ぎ
まつるになむ。
明治二十九年 渡辺直武撰弁書
大字名
全潰
半潰
大破
計
猪子
神花
成田新田
東沼
角田二口
-
青山
-
-
一六
四
二
一
九
五
四
四
一
九
七
九
四
二
五
三四
一六
一五
九
三
五
計
二三
二三
二六
八二