[未校訂]2 安政の地震津波
この年一一月四日朝四つ時(午前一〇時)に大地震がお
こった。年号は嘉永七年であるが、間もなく安政に改元
されたので、世に「安政の地震津波」といわれる。地震
から約一時間あとに大津波が熊野灘沿岸におしよせた。
尾鷲組では六八三軒が流れ、一九五人が流死し、長島浦
では四八〇軒が流れて二三人が流死した。海山地域の被
害について、小山浦元右衛門の手記(年表所収)に、
田地にては芝草まで津波が上り麦みな腐る、古本(相
賀)は本地祓い場(現本地踏切地点)まで上り、船津は
日中屋の水路まで上る、渡利は渡シ場より下は浪乗
る、引本は寺の広庭(現引本小学校庭)まで乗りかか
り、寺町は板敷まで、役所より北浦は家の破風まで
乗り、家二~三軒つぶれ一人死す、矢口にては家二
六軒流れ一人死す、浪は馬瀬越のしばまで上る、島
勝浦・白浦大荒、四日より一六日まで山小屋へ泊る、
夜昼地震揺ること二〇日ばかり
と各地の波入りや被害をくわしく書いている。また「雲
祥寺記録」に「引本在中八~九尺浪上り、在中家一軒残
らず洗い(浸水)諸道具流失」とある。また島勝浦では中
熊で一軒流矢・流死一人、安楽寺(現在より低地)の山門
流失、寺内浸水のため天井を這うて脱出したという。
また「島勝浦沿革史」に、「安政元寅十一月四日朝四ツ
大地震、半時すぎ津浪、九十戸ばかりの戸数わずかに十
戸内外残り他は流失、婦人一人死す」と記す。
白浦では字西出の者は御堂の奥へ、字中の郷・字東の
者は清蔵畑へ小屋がけして避雛した。中村熊夫氏所蔵の
文書に、白浦の被害について次のごとく報告している。
一御納米、皆金納につき別條無御座候
一家数九十五軒の内流家四拾四軒
但し本行の内、餘は水込に相成申候
一人数四百人余の内窮民共弐百七十人餘
一右の筋村方頭立の者共、米少々宛持合せ有之候処、
水込に付、沢手米(濡れ米)に相成候得共、右の米
地下方へ借受、壱人前三合宛、当月五日より差遺
為相凌申候
一当地に舟居合せ米少々積入有之筋をも同様借受
一米六石 白浦肝煎 太郎右衛門
是は窮民為救合、村方へ差出し候に付、右窮民共
へ配当為致申候
一大荒に付稼方無之候得共、村内流家の物(者)共、
山住居小屋拵、手伝等仕、猶流失米聊拾ひ上候、
手伝致し少々宛賃米貰ひ相凌候者も有之候
一納屋数、拾八軒但釜納屋・網納屋惣て諸色納屋共
右白浦当四日大地震高浪荒大様書上申処如斯御座候
以上
寅十一月
津波のあとは各浦村とも困窮者が続出し、各浦村の
[頭立|かしらだち]衆が卒先して窮民の救済につとめたが、白浦でも肝
煎太郎右衛門をはじめ、頭立衆が救い合いにつとめた。
藩も救米を放出し、家屋建築費を貸与するなど、極力そ
の救済につとめた。
海山町内には津波の碑が二基建立されており、一つは
引本浦吉祥院山門の傍らにあり、文久二年(一八六二)庄
屋芝原伴助の建立である。この碑は被災者の供養碑では
なく、後世の人に対して津波の注意を書き残したもの、
また古本村渡利の日和山下に石経碑があり、文久元年(一
八六一)雲祥寺一四世越山魯州和尚の建立である。
碑の中央には「奉石書仏経宝塔」と大書し、在中繁栄・
子孫長久・海陸安全などを祈り、宝水・安政の津波の状
況を、
安政元甲寅六月十四日夜八ツ時、諸国一同大地震続、
十一月四日朝五ツ時大ぢしん、直にたかなみ海辺の
浦におし入、人家なみに引たおされ、波にただよひ
死する人、宝永の時に同じ、復然当組老若男女野に
のがれ、山にのぼりて死をまぬがれたり、末代まで
も海岸の人々はいふに不及、山分たりともよくよく
相心得、覚悟可有之もの也
文久元辛酉仲秋 雲祥十四代謹建之
と記し、最後に高所にのがれるよう注意している。