[未校訂]安政の大地震
安政元年(一八五四)は二度大地震が発生し
ている。
その一つは、六月十三日から同月十八日まで続いた地震
と、十一月四日、関東を中心に起きた大地震である。
このころは外国船が近海に出没し、盛んに通商を求め
るなど世情騒然とした中に発生した地震である。
このときの摸様について矢ノ川の大庄屋の手になる『大
江日記』はつぎの如く記入している。
(安政元年)寅十一月地震
四日午前九時ごろ大地震。それより数度震動する。
夕方、皆で避難小屋をつくる。
引本吉祥院境内津波塔
五日夕方六時ごろより大地震がたびたびおこる。夜
の八時と十時にも大地震。夕方の六時より、皆
が避難小屋に集まり、夜明しする。夜の八時ご
ろ北の方に黒い雲が発生し、十時ごろ大地震あ
り、又、雲が出たが、晴風になる。
六日も時々地震。
七日午前八時ごろ大きく震動、夜も大きな地震が二
時間ほどゆる。
八日時々震動。
九日は夜の十二時すぎと、夜明け前の四時ごろ、大
きな地震。
十六日は雪降りで大分積る。八ツ時(昼か夜か不明、
二時ごろ)大きく震動あり。
十八日地震で休日。夜は大揺れがあると思い、大下
の家に逃げる。
四日に始まった地震は十八日まで続いたが、被害のこ
とは記録されていない。
また、十二月十三日の朝も地震があり、毎日のように
地震があると記録しているから、安政の地震は、長期に
続いたことをうかがうことができる。
この年の模様について『新宮市誌』(昭和十二年発刊)
の「校正年代記」にかなり詳しく記述しているので借用
する。
六月十三日、諸国で地震発生し、新宮では午前十二時
より震い出し、午後二時に大震があった。それより十八
日まで昼夜の別なく震動し、本広寺の瓦落ち、所どころ
の土蔵が皆滅した。
十一月四日の午前十一時ごろ再び震動と、午後五時ご
ろ大震があり、家居残らず倒れその音は言語で述べ難い。
人々は魂を失い、泣き叫んだ。このとき浦神から、二木
島までの海岸部に大きな被害があったが、詳細は略す。
右の史料は新宮を中心とした海岸だけの被害であり、
山間部には筆を入れていない。しかし、これほどの大地
震であるから紀和町内の各所でも被害を受けたはずであ
る。