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項目 内容
ID J2700279
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東~九州〕
書名 〔浜島町史〕○三重県浜島町史編さん委員会H1・10・1 浜島町教育委員会発行
本文
[未校訂]二二 安政の大地震、津波
 嘉永七年(一一月二七日安政と改元)一一月四日(新暦
換算一二月二四日)午前九時ごろ東海道を中心にマグニ
チュード八・四の大地震が発生し、同時に大津波が関東
から九州に及ぶ沿岸を襲った。志摩地方も沿岸各村は津
波による被害が大きく、中でも和具村、越賀村は大被害
を被った。幸い浜島村、迫子村、塩屋村、桧山路村は、
海岸近くの新田が潮入りのために耕作不能となったが、
人畜、家屋ともに被害はなかった。南張村は海岸近くの
家屋が浸水し、郷蔵に詰めてあった米六〇俵が濡れ米と
なった程度であった。
 嘉永七年(一八五四)一一月には全国で三回の大地震が
発生し、死者一万六〇〇〇人という未曽有の被害となっ
たため年号を安政と改元したが地震はやまなかったの
で、この年の地震を安政の地震と称えるようになった。
 浜島、南張にこの時の記録が残されており。浜島の記
録は庄屋清六が次のように記している。
津波家々へ五六尺は波押入、村中半分は二三尺[斗|ばかり]も
波押上り候へども、格別の[痛無之|いたみこれなく]、四日より東村は
東岡へ、中村は世古ノ岡へ、西村は寺岡へ小屋立、
四日より十二日迄小屋[住居|すまい]致し、漸く十二日に家ニ
帰り候へども、日々地震有之[安堵難出来|あんどできがたく]日々送り
候(中略)其時の大地震、大津波ニて村々流失、大痛
多く人死有之、前代ニも[不及聞|ききおよぼず]候へ共、当村方は
格別の様子も無之[難有仕合|ありがたきしあわせ]ニ存候(後略)
 この津波のために城山と中山を結ぶ堤が相当傷めら
れ、翌安政二年八月二〇日の暴風雨により決壊し城山が
孤立した。当時城山に三家族が居住していたため堤を大
改修し、完成したのは安政三年の春であった。
 一方、南張村庄屋、市兵衛は在勤中、安政の地震に鳥
羽の[旅籠|はたご]で遭遇し、その体験記を「大地震、津波実記控
帳」として一冊にまとめている。
 この実記録は和紙一五枚にびっしり書きこまれ、前代
未聞実記、大地震津波の事、当村汐入の人数、組内(大庄
屋組)流失潰家の事、当村両堤大破の事、遺戒録の六項か
ら成っている。
 中編の「大地震、津波の事」は、当日の鳥羽町の様子、
鳥羽から南張に至る道中の模様などが詳しく書かれてい
るので次に全文記載する。
(注、「新収」第五巻別巻五―一、一三五一頁上9以下に
あり、省略)
 なお、「当村汐入の人数」によれば、床上浸水九戸、床
下浸水五戸、郷蔵の詰米六八俵が沢手米(濡れ米)となり
前浜堤防大破となると記している。隣村の流失家屋は、
和具村一三六軒(流死人三六人)、越賀村四四軒、田曽村
一六軒と津波の被害記を書いている。
 鳥羽藩から救助のため、沢手米約二千俵、金千両を下
されたが、南張村は米四三俵一斗七升、金五両二歩ト四
匁七分配分されたとしている。しかし、鳥羽藩の財政は
破産状態で、堤の改修、潮入田の復旧は農民の負担とな
り農漁村の疲弊はこの災害により一段と進む結果となっ
た。
 嘉永七年(一八五四)には三回の地震があった。六月一
四日夜半にM六・九の地震があったが、四日市付近の村
むらで家が壊れ死者も多く出た。浜島は全く被害はなか
ったがそれより前年からの大[旱魃|かんばつ]のため南張村では、井
戸水を、一人一日何合と定めていて、水不足のために絶
村にもなるような状態であった。このような日照続きの
一一月四日と五日、それぞれM八・五の大地震が起きて、
前川橋をはじめ、地下蔵の米や、家屋が津波で流され大
被害となったと、当時の庄屋市兵衛が「大地震津波實記
控帳」に書き残している。浜島村では城山の堤防が壊れ
たり、東浦一帯の石垣が壊れた。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 別巻
ページ 566
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 三重
市区町村 浜島【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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