[未校訂]善光寺地震のあらまし
善光寺地震は、弘化四年(一八四七)三
月二十四日[亥|い]の刻ころ(太陽暦五月八
日午後一〇時ころ)起こった。長野市を震源とした、推定
マグニチュード七・四の烈震で、震度六以上の範囲は、
長野市域を中心に南北八〇㌖、東西三〇㌖の広範囲にお
よんだとされている。地震により誘発された地滑り、山
崩れ、家屋の倒壊、火災、河川の閉塞による大洪水と、
災害のすベてが北信地域の人々を襲ったのである。
その総被害は、死者一万二〇〇〇人余、全壊家屋一万
一〇〇〇戸余、山崩れは四万数千カ所の大災害となった。
この地震のときは、善光寺御開帳の最中であったので、
参詣人の善男善女も多数犠牲となった。信濃国としても、
飯山藩としても、最大最悪の災害となったのである。
当時の庶民が残した落書に「地は震い、山は崩るる世
の中に、何とて弥陀はつれなかるらん」とあり、この地
震に対しての庶民の驚き・恐れ・あきらめが感じられる。
飯山藩の藩政も、この善光寺地震により、大きな影響を
うけるのである。
地震の被害状況については、飯山藩か
飯山藩の被害
ら、幕府へ何度も詳細な届け書が提出
されている。これらにより被害のようすをみていくこと
にする(『日本地震史料』による)。
最初の被災報告は、地震五日後の三月二十九日になさ
れている。
私在所信州飯山、当月廿四日亥刻頃より大地震にて、
城内住居向、櫓門ならびに囲い塀など、おびただし
く破損し、家中屋敷、城下町、領分村々の潰れ家数
多く、死失・怪我人などおびただしく、右につき出
火もこれあり焼失つかまつり、いまもって折々相震
れ候おもむき、在所の役人どもより申し越し候、委
細の儀は追々申し上ぐべく候得ども、先ずこの段御
届け申し上げ候、以上、
三月廿九日 本多豊後守
(下略)
地震による倒壊、火災の発生、死亡・負傷、余震など
の緊迫した状況がうかがえる。具体的な被害事例として、
飯山城の状況をみる。
一本丸
一渡櫓一ケ所 潰
一冠木門一ケ所 潰
一石垣門崩二ケ所
一囲塀残らず 倒
(中略)
一大手
一門 一ケ所 潰
但し二階門
表9 善光寺地震の飯山藩の被災状況
潰(棟)
焼失
半潰
損
死者(人)
死馬(頭)
家中侍居宅
62
18
9
4
86男 40
女 46
8
町方居宅
329
547
307男140
女167
在方居宅
2062
24
730
1122男494
女628
234
合計
2453
589
739
4
1515男674
女841
242
荒地高
7260石のうち水害2100石余、地震5160石余。総石高の20%になる。
(注)1 住宅のみの統計で、土蔵・物置などは含まれない。
2 家中侍居宅には小役の者の長屋も含む。
(弘化4年4月13日幕府届書により作成。)
図5 飯山城善光寺地震被災絵図
(中略)
一中門一ケ所 潰
但し二階門
(下略)
右の史料中、「中門一ケ所 潰」とあるのは、平成四年
の発掘調査で礎石などが出土した南中門である。四月十
三日付・五月六日付の届けから、飯山城が壊滅状態にな
ったことが知られる。図5は、飯山城の被害状況を幕府
に報告し、補修を願いでた絵図であるが、この絵図から
も城内の石垣・塀・建造物などが大きな被害をこうむっ
ていることがわかる。
武士の住居については、「四四軒 潰、六軒 焼失、六
軒 半潰、四軒 損」などとあり、長屋住まいも含めて、
約九〇軒が被害をうけている。武士の住居の被害は、火
災より倒壊の被害が大きいが、これは敷地の広さと建物
が密集していないことなどが関係していよう。
死者は「侍分並びに家内小役の者下々まで即死八十六
人 内 男四十人 女四十六人」とあり、五月六日づけ
の届けで即死人の一部をみると、
即死人名前左の通り
小西要人・同忰・妻共 小西格
中条衛守妻共
(佐久間伊右衛門娘共
同人 忰安太郎
(本多丑蔵養母
同人の孫女
八郎弟
大久保馬次郎
(本多勘右衛門妻共
同人忰恒太郎
(荒木右門は妻共
同人忰又三郎
同 安太郎
(下略)
とあり、一家全滅ではないかと思われる家もある。侍分
の死者は婦女子の割合が多くなっている。
町方の被害状況をみると、
[竃|かまど] 五百四十七軒 焼失
同 三百二十九軒 潰
内七軒山崩れにて[泥冠|どろかぶり]
土蔵百七十七軒 焼失
同 六十九軒 潰
土蔵・上屋計二十棟焼失
(下略)
とあり、町方の住宅被害八七六軒のうち、約六割が焼失
である。史料に「御家中様方にて三軒残り申し候。町家
一軒も残らず潰・焼失いたし、死人何程と申すこと今に
相知れ申さず候」とある。町方の住宅被害は、家屋の密
集状況、構造、屋根の材質などから、被害が甚大となっ
たと考えられる。死者は三〇七人、うち男一四〇人、女
一六七人と、町方も女の犠牲者が多い。公用で町の旅館
に宿泊していた、小菅村名主和助、青倉村名主勘右衛門
なども犠牲となっている。和助の死は、「これは飯山本町
[旅籠|はたご]屋庄兵衛方にて死失、[骨|ほね]ばかりに相成り申し候」と
あり、悲惨な[死様|しにざま]であった。
飯山町は、寺院が城下西側の丘陵地に並置しているが、
これらの寺院も被害をまぬがれなかった。
飯山寺社震潰
一上町 善恪(覚)寺本堂少しくり潰
一同 真宗寺本堂少しくり半潰
一鉄砲丁 蓮台寺惣平潰住持死
一なら沢西敬寺くり・本堂共半潰寺内総潰、小僧一人死
(下略)
ほかに忠恩寺、妙専寺、常福寺など一四カ寺が被害を
うけている。戸狩の光明寺本堂の入口の梁は、この地震
でひび割れしたが、補修をして現在も使用されており、
ひび割れは今でも確認することができる。
在方の被害状況は、山間部と千曲川沿岸では、地盤が
違うためそれぞれ異なった様相を呈した。五月六日の届
けには左のように書かれており、このほかに被差別部落
の被害も含め総数は表9のようになる。
一領内在方之分
(中略)
郷蔵 三十一ケ所
内
山崩にて土中に埋 十一ケ所
潰 九ケ所
半潰五ケ所
類焼七ケ所
居宅 潰二千五十六軒
内
八十三軒山崩にて土中へ埋
同 七百三十軒 半潰
同 二十三軒 焼失
(下略)
八三軒が土中に埋没しているが、「信州大地震取調書」
によれば、
一長沢通富倉峠の山々十六ケ所欠け崩れ、笹川村へ押
し出し、家五十三軒のところ、三十七軒山冠りに相
成り、死失七十八人、怪我人二十人これある由、尤
も土冠りに相成り候場所は、今そのままにいなし置
き候事
(下略)
とある。笹川村で山崩れにより集落の約七割が埋没し、
死者七八人、負傷者二〇人という大被害となったのであ
る。上新田もこのときの被害で、子どもたちが犠牲とな
り、その墓碑が上新田の畑の脇にある(写真10)。三月二
十四日は太陽暦の五月八日にあたるから、富倉峠付近は
雪解けによる士砂崩落ともかさなって、このような大被
害となったことが考えられる。中曽根では村人一八五人
のうち約三割にあたる六三人が、山崩れで犠牲になって
いる。供養のため、嘉永三年(一八五〇)に石碑が建立さ
れた(写真10)。
在方の被害状況をみると、火災による焼失は大変少な
い。これは敷地・家屋などが密集していないことが一因
と考えられる。また在方の死亡者は、全体で一一二二人、
うち男は四九四人、女六二八人で、町方と同じく女が多
い。飯山藩全体に死者は婦女子が多く、弱い立場の者が
犠牲の中心となったのである。
犀川湛水の決壊による水害
善光寺地震による山崩れと地滑りは
四万数千カ所で発生したが、その最
大のものは[虚空蔵山|こくぞうさん]の崩落であった。この山は現在の上
水内郡信州新町の入口の[水篠|みずしの]橋の東辺にある。地震のと
き、山が二方向にむかって崩れ、犀川を二〇日間余にわ
たってせきとめ、上流に自然の巨大な堤防によるダムが
できたのである。このため、下流の飯山町近辺の千曲川
は干上り、徒歩で対岸の木島まで渡れたと史料にある。
飯山藩では、この巨大なダムの決壊による洪水に備えて、
警戒体制をとっていたことがつぎの史料でわかる。
其の方どものこと、水番不寝仰せつけおかれ候ところ、
去る十二日暁、御舟番所出火の始末心得方、まったく
なおざり故のことに候、
水番として、春日井久馬など六人が徹夜の警戒にあた
っていたのであるが、そのさいに失火で番所が焼失し処
分されたのであった。翌日の四月十三日午後五時ごろ大
堤防が決壊し、そのときの大音響は松代・須坂・中野ま
で聞こえたという。この決壊による激流は、小市(長野市)
で水かさが六丈あまり(一丈は約三㍍)となって、川中島
写真10 弘化の地震の碑
(右)上新田墓碑「法随童子、弘化四未三月廿四日」と
刻まれている。
(左)中曽根石碑「地震亡霊棲神之域」と書かれ側面に
は被害状況がつづられている。
平の村々を襲い、千曲川に流れ込んだ。中野市立ケ花で
は、夜九時ころより出水、同夜十二時ごろに二丈八~九
尺の水かさとなった。
飯山町の出水状況については、以下の記録がある。
四月十三日
一今夜四ツ時(午後一〇時)過、千曲川の水、にわかに
三、四尺出水の段、水番より御届申し上げ候旨、御
目付聞き申し候、
一追々出水に付き、かねて手当申し渡し候相図これあ
り候に付き、何れも表御門ヘ相詰め、南辺の面々は
立ちのかせ、それぞれ手配申し渡し候
(下略)
十三日の夜一〇時過ぎからにわかに増水が始まり、水
かさが一㍍前後となったことがわかる。事前の警戒体制
の申し合わせにしたがい、大手門前に集合し、新町方面
の人たちを避難させている。本格的な増水については、
四月十四日
一今暁八時(午前二時)過壱丈壱尺、七時(午前四時)壱
丈弐尺、六時(午前六時)壱丈三尺出水の段御目付申
し出で候、尤も御家中ヘは水入り申さず候、
一今朝五ツ時(午前八時)過ぎより、追々落水に相成候
に付き、九時(午前十二時)過ぎ、何れも退引候 (下
略)
とあり、増水の最高水位は、十四日朝六時ごろの約四㍍
であったことがわかる。「御家中ヘは水入り申さず候」と
あるから、城下は浸水しなかったらしい。別の史料でも、
「このたびの大地震で、飯山町場の西南の地域が、およ
そ三㍍も地高になり、安田村の渡場付近の人家は、床上
浸水となったが、飯山方は堤も越すことがなかった」(「信
州大地震取調書」)とある。このことから、飯山町では地
震のときに、地盤変動(隆起)があり、洪水の際には、浸
水をまぬがれたのではないかと考えられる。
しかし、千曲川沿岸の村々では、洪水による水害が大
きく、飯山藩の「届」によれば、
一田畑水押入り、水冠り・石砂入り・川成共
九百六十九石二斗三升八合
一同水押し荒地・川欠
千百二十三石二斗一升九合余
一同水冠り
二十四石九斗余
(下略)
とあり、「[川成|かわなり]」「[川欠|かわかけ]」などで二一七七石余の耕地が被
害をうけている。復旧には多大の負担が農民にかかった
うえ、水田などの生産力がもとに戻るには数年間を要し、
二重の負担が農民の生活を苦しめた。さらに「用水路土
手押切り」が四カ所で、延長五六〇間余となり、農業基
盤全体に被害が生じている。洪水による死者は皆無であ
ったが、これは千曲川下流域であったこと、警戒体制を
十分にとったことが大きかったと思われる。
このような大災害に、幕府・飯山藩がいかなる救済策
をとったかをつぎにみていくことにする。
幕府・飯山藩の救済策
善光寺地震は、山崩れ・火災・洪水と
災害の諸相をこの地域にもたらした。
幕府・飯山藩はその救済策として、いろいろな施策をし
た。
一御上より御家中・町方の者ヘ、三月廿五日より四月
三日まで、一日に三度ずつ粥・味噌下され候、四日
より困窮者ばかり下され候こと、(下略)
一〇日間の[施粥|せがゆ]がおこなわれている。場所は大手門近
くの御救い小屋である。格別の困窮者には、その期間を
さらに延長して救済をはかっているのである。また、飯
山城下の町人米屋栄右衛門が米四七〇俵あまりを施粥し
たとの史料もあり、富商による救済もおこなわれた。史
料では、栄右衛門を「仁の心これある者」と褒めたたえ
ている。
藩が被災者全体に対してとった救済策としては、「御手
宛金頂戴割符名前帳」(小佐原 高橋仁氏所蔵・写真11)
により、本潰に金一分、半潰に金一朱のお手当金をあた
えたことがわかる。幕府領の関沢村は、本潰には金一両
があたえられている。近隣の諸藩では、椎谷藩五両、須
坂藩二両、松代藩三分となっており、飯山藩は最低金額
であった。これは被害が甚大な反面、藩財政が苦しく、
手がまわりかねたためであろうか。
これだけの大災害のため、飯山藩だけの財源では被災
者を救済することは困難となり、藩は四月二十二日に幕
府に拝借金一万両を願いでた。幕府は早速同二十三日、
江戸城波之間において、老中戸田山城守から、三〇〇〇
両の拝借金下付を藩江戸屋敷の寺田甚兵衛に申し渡して
いる。須坂藩は一五〇〇両、松代藩は一万両であった。
飯山藩が五月三日付けで大目付深谷遠江守ヘ提出した史
料によると、藩は三〇〇〇両を馬五匹、人足五人で、中
山道の沓掛(軽井沢町)、大笹街道の仁礼(須坂市)、須坂
を径て飯山まで輪送したことがわかる。
災害時に治安秩序を維持することは、支配上からも重
要であった。
大地震の虚に乗じ、盗賊ども[徘徊|はいかい]いたす趣、相聞こ
写真11 御手宛金頂戴
割符名前帳
え候間、村々役人ども番人召連れ昼夜見廻り、火盗
の難これなき様心付くベし。もしうろんなる者見か
け候わば、取り逃さぬ様捕えおき、訴え出るベし
(中略)
未四月
中野御役所
こうした史料から、諸藩、幕府領間で連絡をとりあい、
地域全体の治安維持を図っていたことが知られる。実情
は混乱に乗じて盗賊などが出没したようである。
地震による広域にわたる大被害は、復旧のために多数
の職人や物資を必要とさせた。物資不足、人手不足がい
ちじるしく、物価の急騰、手間賃の急騰が生じた。勘定
所より幕府領・藩領に諸物価安定を求め何度か申し渡し
がなされている。
(上略) 当三月大地震、翌四月中の大洪水とも、古
今未曽有の災害、村々極難におちいり、追々小屋か
け修覆に取りかかり候ところ、諸職人・日雇のもの
作料・日雇賃銭上げ、そのほか諸材木、諸色に至る
まで、値段引き上げ候趣、相聞こえ候間、当四月中
別紙写の通り支配所村々ヘ触れわたし置き候とこ
ろ、(中略)右様の儀これなき様、きびしく申し渡す
ベき旨、江戸表御勘定所より、御達これあり候間
(中略)
荻野広助
七月四日 小林甚右衛門
と、松代・須坂・六川・飯山役所に、手付役の名前で申
し渡されている。飯山藩では六月に同様の回状を領内に
出している。そのなかで、諸職人の手間賃は一二日間で
写真12 「弘化四年三月二十四日」の西敬寺過去帳
これには、大地震による70人をこえる死亡者がしる
されている。
金一分というが平常の賃銭を維持せよと命じている。こ
の金額は、藩が被災者にあたえた金額と同一である。だ
が、地震後に諸職人の手間賃は一〇日間で一分となって
おり、申し渡しにもかかわらず賃銭が上昇している実情
だったのである。
一方、各藩では自藩の救済にのみとらわれた施策に走
っていたようすが飯山藩の通達からうかがえる。四月十
六日付の達によれば、「木材・繩等はこれから必要となる
ので、たとえ親類であっても、他領ヘ出してはいけない」
と定め、藩内の物資確保に努めている。農業関係では、
田植えの時期でもあったことから、「苗草がだめになった
ら、村内で相互に融通しあい、田植えに支障のないよう
にせよ」と指示している。同十七日付では、「不足の村々
に苗を融通せよ。ただし他領の親類、懇意の者から頼ま
れても、苗をやってはいけない」と徹底をはかっている。
また、飯山藩が穀留をおこなったとの史料もある。
飯山藩は六月に倹約令を出し、その請書が、愛宕町・
本町・鉄砲町・奈良沢・上倉に残されている。藩はこの
倹約令のなかで、今まで以上の倹約・諸役人ヘの贈物禁
止などを求めこの災害を契機に藩内の支配をより強化し
ようとした面もみられる。在方・町方で決められた自粛
すベき三カ条の内容は、①婚礼・仏事は質素に取りおこ
なう、②町内の交際は八文・一六文以内とする、③家作
は分相応にする、といずれも消費抑制の内容となってお
り、今後三年間は倹約第一の生活を送るとしている。
善光寺地震で飯山藩内では一五〇〇人余の死者が出
た。三カ月後の七月五日午前十時より、忠恩寺に諸宗の
僧侶が集まり「大[施餓鬼|せがき]」の法要を営んだ。法要には、
町人・農民は死者の戒名などを持参し、自由に参加して
よいとしている。災害で人心が動揺し不安定になった状
況は、支配のうえからも問題となるため、物心両面から、
藩内の人心の安定をはかっていることがわかる。
大災害からの復興
地震で倒壤、焼失した家屋が飯山町で一
〇〇〇軒あまりもあった。この壊滅状況
のなかで、本町の町人六三人は連名で五月、願書を藩ヘ
提出した。
書付を以て願上げ奉り候
一此度大地震につき出火致し、町方一同焼失つかまつ
り、追々家作いたしたく、町内相談つかまつり候と
ころ、已来出火の用心にも相成り候間、先規より町
幅片側にて三尺ずつ広くいたし、家作つかまつりた
く、一同相談つかまつり、(下略)
という内容であった。本町の町人たちが、町の再建にあ
たり、防火対策として道路幅を片側三尺(約九〇㌢㍍)ず
つ拡張したいと願いでているのである。明治初期の本町
通りの写真は、中央に水路があり、広い道路になってい
る。このように抜本的な対策を申しでるなど、町人は町
の再建に積極的に取り組んでいることがうかがえる。
火災による多数の家屋焼失は、材木の需給からも大変
なことであった。弘化四年九月の「大坂屋等材木買い請
け証文」をみると、本町の大坂屋源右衛門と野田屋平助
の両人が、佐野村(山ノ内町)から、「[末木|うらぎ]・[榑木|くれき]」三〇三
本、杉皮一三五坪分などを、代金三五両で購入している。
杉皮は屋根、側壁に使用したと考えられ、当時の家屋が
火災に弱いことがわかる。佐野村より買っているところ
をみると、飯山近辺だけでは木材需要をまかなえなかっ
たのであろう。
被災後一〇年の飯山町の復興状況を表10からみると、
家屋を焼失した世帯八六八世帯。うち一〇年後に「家作
仕り候者」が引越し跡ヘの家作も含めて、六一五世帯と
再建率は約七〇㌫である。いまだに三〇㌫の人々が
家を再建できないのである。「死絶え」とあるのが、二六
世帯もあり、被害の悲惨さがうかがわれる。「仮屋」「小
屋」住いの不自由な生活をしている者が一五六世帯もあ
るなど、被災者の経済力の差が家の再建の時期の違いと
なっている。
文化四年(一八〇七)九月の飯山城下家数調べによる
と、家総数八九六軒、うち借家は一九三軒で、約二〇㌫が借家であった。安政四年(一八五七)四月の調べでは、
表10 安政4年(1857)5月 飯山城下の善光寺地震被災復興状況
(単位:世帯)
総数
本町
上町
肴町
愛宕町
神明町
新町
鉄砲町
奈良沢
上倉
有尾
市ノ口
小佐原
大池
被災状況
震潰焼失
868
112
145
46
92
109
68
63
124
18
28
41
15
7
死絶え相成り候者
26
3
5
4
―
7
1
2
2
1
―
1
―
―
他所へ引越し候者
8113
17
8
8
11
7
8
8
―
―
1
―
―
他稼仕り候者
30
3
12―
6
―
3
6
―
―
―
―
―
―
本家・親類同居仕
り候者28
9
5
3
1
2
―
1
6
1
―
―
―
―
復興状況
家作仕り候者
575
64
75
29
80
71
41
46
79
16
24
33
10
7
仮家作仕り候者
102
18
16
3
―
15
13
1
21
1
4
6
4
―
小屋住居の者
54
10
4
2
3
10
4
10
8
―
1
1
1
―
引越し跡へ家作仕り候者
40
9
9
3
6
7
1
4
―
―
―
1
―
―
(「浦野家文書」により作成。)
家総数七二三軒(大池・小佐原を除く)、うち借家は一七
七軒と約二五㌫が借家となっており、地震後に飯山町
の借家の割合が増えている。とくに本町は、九五軒のう
ち四一軒が借家になっている。
町別の復興では、上町・新町は家の再建が約半数であ
るのに対して、愛宕町・有尾・上倉・大池は、八〇㌫以上が再建されており、町・在により違いがでている。
嘉永元年(一八四八)八月、小境新田の農民九人は、地
震による桂池減水のための用水路復旧工事の自普請に必
要とする費用、七〇両を五年無利息の年賦で、藩から拝
借した。笹沢村は北龍湖堤防決壊で水田が荒地化し、復
旧工事の費用を柏原村(信濃町)の中村六左衛門から九〇
両、柏尾村の川久保伊兵衛から五〇両と、計一四〇両を
無利息一〇年賦で借りている。復旧による経済的負担が
農民の生活を圧迫したことがうかがわれる。人的損失は、
復旧工事や農作業にも影響することになるが、馬二四二
匹の死失も、復旧工事などに大きな障害となったとみら
れる。
嘉永七年十月の一札によれば、大倉崎と関沢の両村で、
地震のさいに千曲川に流れ込んだ土砂の除去について相
談し、申し合わせをしている(写真13)。災害から七年も
経過したにもかかわらず、地域によっては、いまだに復
興へのきびしい途上にあったのである。善光寺地震は飯
山地域にとり、長期にわたる経済的負担などをはじめと
する問題を多く残し、復興も容易ではなかったのであり、
当然に飯山藩政にも多大な影響を残すことになった。
① 地震前
②石が押しでたところ
③ 百姓がとりのぞいて小さくなった島
④現在のようす
写真13地震で千曲川へ押し出した岩の図
小菅村から関沢村の千曲川に石や土が押し出し、島のようになったようすがうかがえる。
善光寺地震の犠牲者供養碑
善光寺地震はこの地域に多数の犠牲者
を生じさせた。人々は、死者の冥福を
祈り、この災害を忘れることのないようにと、いくつか
の供養碑などを建立した。
大聖寺境内には「善光寺地震慰霊供養地蔵」(写真14)、
中曽根には先述した「地震亡霊棲神之域」の石碑(写真
10)、忠恩寺境内には「地震壓死精霊塔」がある。忠恩寺
のものは、飯山町の商人伊藤林右衛門・牧野庄右衛門の
両人が願主となり、一三回忌にあたる安政六年(一八五
九)に建立したものである。笹沢の「荒地開発供養塔」は
安政四年の建立である。上新田には先にふれたが、幼い
子どもの墓碑(写真10)がある。碑文ではないが、善光寺
地震の復興のために、小菅山権現の別当英真法印が、材
木数百本を飯山藩に寄贈している。それに対して、飯山
藩士の[物集女|もずめ]右衛門源正森ら一六人が連名で佐久間雲窓
の筆による花鳥絵馬を小菅山に奉納し、現在もその絵馬
を見ることができる(写真15)
最後に、善光寺地震について今日のわれわれが事実を
知ることは、飯山地域の災害環境を改めて認識すると同
写真14 善光寺地震慰霊供養地蔵
写真15 善光寺地震奉納絵馬
時に、そこから多くの教訓を学ぶことができるのではな
いだろうか。