[未校訂]善光寺地震と水害
延徳耕地の大水害 善光寺地震は、江戸
時代二六〇余年間で記録された三二回の
全国的な大地震の一つに数えられている。弘化四年(一八
四七)三月二十四日(陽暦五月八日)夜十時頃に発生した
地震は、北信濃の各地に家屋の倒潰・焼失と千曲川の大
洪水による家屋の流失や、人畜の死傷という大きな被害
をもたらした。
水内郡善光寺町は、この年の三月は善光寺の御開帳で
にぎわっていた。大地震の発生とともに、参詣人でにぎ
わう宿房や町宿をはじめ、一般民家も倒潰し火災も発生
した。二晩三日燃え続けた大火は、善光寺本堂は残った
が、善光寺町の大部分を焼きつくした。
家居の流失は、犀川が山崩れのために堰き止められ、
その湛水が大量に一気に川中島平一帯に大[氾濫|はんらん]したため
であった。このような被害の全ぼうは、記録がまちまち
で確実にはつかみにくいが、楜沢竜吉『叙事民謡 善光寺大地
震』によれば、第102表に示すとおりである。全壊・焼失
や流失家屋の総数は、おそらくこの数をゆうに越すもの
と考えられるし、死者総数も参詣人の一、一八〇人も含
めて八、三〇〇人を越えており、痛ましい数字である。
地元の善光寺領や松代領とともに、中野陣屋支配地の被
害の大きいことも一つの特徴であろう。
延徳耕地におよぼした水害のようすを、松代藩の月番
家老であった河原綱徳の手記になる、『むし倉日記』によ
って記してみよう。
大地震のために、犀川上流の更級郡山平林村と安庭村
(ともに現長野市)との間にある虚空蔵山(一名、岩倉山)
が二つに割れて抜け落ちて、大岩を含んだ粘土質の土砂
で、犀川を二カ所で堰き止めてしまった。そして折から
高い山々の雪どけによる増水を一九日間もたたえ、その
水位は平水よりもおよそ七~八丈も高くなり、犀川ぞい
の上流で数カ村が水没し、その一帯は湖水のようになっ
た。このため、下流の犀川は干上ってしまい、水溜りの
所々で鱒・鯉・[鯰|なまず]などが拾い捕りできたほどであった。
さて、一九日間もたたえられた水は、大波が一度に打
ちかかったように見えた時、ついに堰き止めていた土砂
を一気に押し払い、高浪のように川中島平の出口にあた
る小市(現長野市)へ流下した。この時の水位は六丈六尺
ほどあったといわれ、松代藩が水害予防に急造した普請
土手をたちまち押し流して、川中島平一帯に激流となっ
て氾濫した。
こうして延徳耕地へ押し寄せた大洪水のため、小沼村
を中心に大きな被害を受けたが、そのようすを続けて記
してみよう。川中島一帯を押しまくった大量の土砂を含
んだ大洪水は、延徳耕池に押し込んだ。小布施・中条・
第102表 善光寺地震の被害
全潰
焼失
流失
死者
死馬
善光寺領(1,000石)
2,350
軒
2,394
軒
-軒
2,413(3,500)
人
―
頭
松代領(10万石)
9,531
250
1,081
2,850(2,700)
267(270)
飯山領(2万石)
2,106(2,647)
591
―
1,413(1,540)
234(246)
須坂領(1万石)
85(114)
-
266
17
1
中野陣屋領(5万8千石)
2,178
13
-
778
156
合計
18,447
3,421
1,649
8,326
818
注1 松本領等を略したので、合計は表の数字とは一致しない。
2 ―印は記載がないことを示す。
桜沢村等の人家には異常はなかったが、中条・桜沢村の
沖には、流れ着いた壊れた家屋や雑物が山積した。これ
らは水田の障害になるので焼き払おうとしたが、水をた
っぷり含んでいるため、煙ばかり立って処理に骨を折っ
た。
大熊村の低地の人家は軒下まで水につかり、殊にいた
ましい被害を受けたのは小沼村だった。同村への道路は
まったく泥土でうまり、人家は屋根の三分の一ほどに泥
の痕跡がついており、床上二・三尺は泥入りとなった。
このため、家々ではねこ・畳やその他の家財道具を掘り
出しては洗っている状況である。そのうえ、潰れ屋もあ
るらしいようすで、言語に絶するしだいである。また、
どの家の屋根にも上方にぽっかりと穴があいているが、
これは満水に慣れている小沼村独特の風景とのことであ
る。すなわち、家々では梁の上に棚をこしらえておき、
そこに大切な諸道具を入れて水害にそなえてある。洪水
の場合、老人や幼い者はいち早く山手にある親類や縁者
宅へ立ちのかせ、壮年の者のみが家々に残り、右の棚を
守っている。水かさがしだいに深くなり、棚に届くよう
になると、屋根を破ってはいだして救助を求める習慣で
あった。
小沼村の水害対策 さて、この弘化の大洪水によって、
川中島平一帯に運搬された泥土の量は計り知ることがで
きないといわれている。延徳耕地付近の千曲川も、この
時に流出したおびただしい土砂のために川床が高くな
り、そのうえ、立ケ花村より川下の谷合もこれまた川底
が高くなって、水吐けが悪くなってしまった。また、水
防堤もあらまし押し流されてしまったので、弘化期以後
はわずかの満水でも延徳耕地は水害となり、耕地はもち
ろん家居も被害を多く受けるようになってしまった。
このように弘化の水害に痛手を受け小沼村では、千曲
川敷の床高となった今日、根本的な水難対策として村中
の住居替えが問題となった。時代はややくだるが、この
問題はついに慶応元年(一八六五)五月、同村では現実に
移転決議をして、移転先を物色する段階にまで進展をみ
た。その悲壮な取極めは次のとおりである。
一 新屋敷地はめいめいの現在の屋敷地の坪数に応じ
て決めること
一 雑用の負担はその坪数に応じて差し出すこと
一 新屋敷を古来より持っている者でも、雑用は三分
の一だけ負担すること
一 村役人や惣代のものは、移転完了までに日数がど
れほどかかっても、村の内外とも助け合うこと
一 村役人や惣代のものは、御役所へ出張する際も、
諸入用はなるべく少なくすむようにすること
一 新屋敷地が決定して引越しする節は、村中で協力
し合い、七年以内で移転をすますこと
こうして、惣代(実行委員)と村役人は、移転候補地を
同村の新屋敷添いの堂之浦と自村持ちの山ノ神(延徳駅
の南東の山)や北大熊村方面にさがした。しかし、結果的
には、以下に述べることも含めて諸事情により移転には
至らなかった。
一方、延徳耕地の治水対策はこの弘化水害を契機とし
てさらに前進した。激化した水害にそなえるために、結
束を強めた延徳耕地周辺の農民は、二一カ村で「延徳耕
地組合」を結成し、連合をさらに固めて抜本的な治水対
策を企画したのである。その一つは、延徳耕地の千曲川
縁に押切村より立ケ花村地籍までの約一里の間に、対岸
の堤防に匹敵する全耕地を包み込む大堤防を築く工事を
おこなうことである。もう一つは延徳耕地の下流、水内
郡上今井村(現下水内郡豊田村)地籍で、大曲流している
千曲川を直流にする瀬直し工事をすることである。
こうした工事の計画や領主側への歎願には、組合村二
一カ村の名主とともに、安源寺村要左衛門や東江部村庄
左衛門や西江部村市左衛門等が、土堤頭取となって登場
している。要左衛門は、千曲川の瀬直し工事の提唱者で
あり、庄左衛門は延徳耕地に基盤をおく当地域きっての
豪農であり、市左衛門を含めた主導層は、当地域の地主・
豪農層である。この期の治水策は、こうした農民層が中
心となって推進されたことが一つの特色といえよう。