[未校訂]7 地 震
弘化四年(一八四七)三月二四日夜、信州全体および越
後高田地方に迄およぶ、いわゆる善光寺地震の被害は松
代藩で幕府へ報告した記録によれば、
圧死流死者 二五八五人
怪我人 二二六二人
牛馬死 二六七疋
居家潰 九三三七軒
同半潰 二一八二軒
におよんだというが、坂城地方での被害の記録はあまり
見えない。
「弘化四年五月、長沼富竹外二ケ村 地震火災ニ付明
俵出被仰付小前触方請取方控」帳によれば、各個人で五
俵位宛差出し、北日名では五一七俵、苅屋原では二一八
俵というように集め、坂木村で総計三〇二三俵となった。
それは力石村の船場へ届け、船便で送ったようである。
これは善光寺地震のため堰止られた岩倉山の欠潰に備え
て、川中島地方の水防に供出したものであろう。