[未校訂]1 地 震
他の自然災害に比べると発生回数は少ないが、もっと
も恐れられるのは地震である。表45は近世のこの地域に
おける主な地震を表にまとめたものである。(注、省略)
このうち麻績地域に大きな被害を与え、詳しい記録の残
っているのは弘化四年(一八四七)三月二十四日、折から
善光寺本尊の開帳中に発生した「善光寺大地霞」である。
当時の記録「信州善光寺大地震焼失水押之次第」
(中町 滝沢弘光氏蔵)には、「弘化四丁未年三月廿四日、当山如来開
帳中での事ゆへ、山門并市中一統賑ひ、夜分ハ萬燈白日
の如く繁昌之処、同夜亥ノ刻(午後十時)、俄に大地震大
雷の如く、寺院并市中一度ニ揺潰し闇夜となり、程なく
数か所より出火、大火となり、家毎に泣さけぶこゑ天地
にひゞき、無難にて逃出たる者ハ父母、妻子、兄弟を助
んと艱苦をなし、火を消さんとするものも無之、銘々野
田へ逃出、唯忙然たる有様也」などと当時の様子を詳し
く記してある。
この地震で善光寺町や附近一帯の町村で二万九〇〇〇
余の家が倒潰し、焼失し、折から御開帳中の善光寺参詣
の善男善女をはじめ二万余の人が圧死したり、焼け死ん
だりした。その上、この地震のため犀川上流の岩倉山が
崩れて犀川の溪谷をふさぎ、本流を堰き止めたため松本
領山清路まで、長さ二八キロメートル、幅八キロメート
ルにわたり湛水し二四か村が水没した。そしてさらにそ
れが四月十三日に至り決潰し、善光寺平の九七か村を流
失させ、一万八〇〇〇余人の溺死者を出す大惨事となっ
てしまった。
この地震の震源地とは、山ひとつ隔てただけの麻績地
方の村々には当然種々の被害があった。特に善光寺街道
に沿った麻績宿は家が軒をつらね、街並みをつくってい
るだけに被害も大きかった。また、善光寺宿をはじめ丹
波島宿や隣宿の稲荷山宿が壊滅したため伝馬事務が停滞
してしまい、加えてこうした時につきものの流言飛語が
とび、一時は大混乱に陥ったようである。
麻績町宿ではその対策に困窮し、とりあえず村役人の
名をもってつぎのような届けとともに、伺いをたててい
る。
以口上書御届奉申上候
当三月廿四日夜四ツ時頃大地震ニて 引続き日夜今以
て相止まず 居宅住い相成らず 町裏所々へ仮小屋相
掛け住居罷り在り候 町方潰家三軒 [雪隠|せっちん] 長屋数ヶ
所居宅土蔵屋根壁等損し候場所家毎ニ御座候
一、隣宿稲荷山宿中潰れ なお又焼失 手負い死人多
分出来 往還御用継立でき難く それぞれ規格相定
り候まで 継立て申さざる[断|ことわ]り之あり 之により御
武家方へ右の趣お断り申し 差扣え下され候様申し
立て 滞留致させ候儀御座候
一、丹波島宿(中略)も宿役差支え 継立てでき申さず
候
一、善光寺町潰れ なお又焼失 亡宿同様 これ又手
負い死人夥しく御座候
一、山中川筋住居の村方潰れの上焼失 その上犀川留
り 当節水底ニ相なり手負い死人多分でき その外
村々数多潰れ候故 [夫喰|ふじき]ニ差支え 追々当御預所へ
罷り出で 無心申し入れ 露命相続致したき趣 風
聞これあり 万一多勢罷り越し候はゞ 少しも取り
救い仕らず候ては 品により狼藉にも及び申すべき
や 甚だ以て心配仕るニ付 如何執りはからい然る
べきや御伺い申し上げ候(以下略)(上田市森芦沢達氏蔵)
この伺いに対し松本の役所から指示があり、それにし
たがったのか村では四月に入って被害状況を書き上げ
報告している(「麻績家居損事書留帳」滝沢弘光氏蔵)。この書き上げには、
まず一軒々々について細かく被害状況を記した後、
家数〆六拾五軒
内 居宅潰 四軒
大破 七軒
小破 五拾四軒
右者当三月廿四日夜よ里引続大地震ニ而書面之通り町村
人別之内居宅 土蔵物置等潰大破小破ニおよひ候分
其外少々宛損事候家数百軒余御座候
とある。なお、この書留帳にはその後に、この書上げに
対して松本役所がとった処置がつぎのように記されてい
る。
御出役
御手代
春日井藤之丞 様
小出三太郎様
四月十一日御見分 同夜 翌十二日両夜 瀬戸屋孫右
ヱ門方御泊
覚
大善院 宮本平右ヱ門 同市太郎 高畑兵四郎
右四人潰家ニ付壱人ニ付金壱両宛被下置候
茂七 元五郎 永蔵 清六 文四郎後家とみ 粂右
ヱ門 松治 栄右ヱ門 金七
右九人半潰ニ付壱人ニ付金弐分宛被下置候
但 五月廿三日御召出ニ付 右惣代九右ヱ門 清六
差添役人清五郎出致 右之金御下渡ニ相成候
すなわち、先の報告に、被害家屋計六五軒のうち全潰
四軒、大破七軒とあるのに対し、出役春日井藤之丞・小
出三太郎の二人の手代が見分の上、全潰四軒、半潰九軒
と認定し、全潰には一軒一両宛、半潰にはその半分の二
分宛を、五月廿三日に至って支給しているのである。
この善光寺大地震の八年後、すなわち安政二年(一八五
五)に至って、野口村仙吉外一三名の百姓が、つぎのよう
な願書を村役人を経て松本役所へ提出している。
乍恐以書付奉顧上候
筑摩郡野口村小前田掛り一統申上げ奉り候は 女渕沢
掛りの儀は 地震以来出水追々[涸|か]れ細ニ相なり 年々
仕付は勿論 わずかの照ニも番水等致し候程ニて そ
の時々難渋仕り候(以下略) (野口 吉野文敏氏蔵)
要するに地震以来、女淵沢の水がだんだん涸れて細く
なってしまい、稲作に難渋するようになってしまったと
いい、その対策として新規に溜池を造成したいが、自力
におよびかねるので御普請金を拝借したいという願いで
ある。大地震の被害がこんなところにも波及していたの
である。