[未校訂] 次に弘化四年(一八四七)三月の北信一帯を襲った、い
わゆる善光寺大地震は折から御開帳でもあり、混乱極度
に達し町民、旅人など二五〇〇余人の死者が出たという。
上野組大庄屋は左のように記している。
昨夜四っ時(二十四日夜十時ごろ)大地震にて所々破損
した。下角影村の老夫婦四人、そのほか三人、二十三日
出立善光寺へ参詣、昨夜稲荷山宿に泊まったところ、数
十軒ゆり[潰|つぶ]れ同行の内三人死失と届出を受けたので指図
して親類などすぐに迎えに出立させた。そのほか、小室
村では十三歳の娘も善光寺で死失、南大妻村、北大妻村
でも二人が生死不明とあり、藩でも早々に対応し、「死亡
者の[施餓鬼|せがき]を山辺の念来寺で行うから戒名を村役人より
差し出すように」また、「飯山、松代、善光寺辺より、家
屋、[夫食|ふじき]等なき者が追々御領内に来たときは懇ろにいた
わるように」と御達しが出た。別帳をさらに書き加える
と、
三月十日より如来様開帳これあり、所々国々より[参詣|さんけい]
人数万人、ゆれ潰し候中より出火これあり、残らず焼失、
参詣人また死すること数知れず、その節本堂、経堂、大
勧進、大本願、山門の五ヶ所は何事もこれ無く候え共残
分は残らずゆりつぶれ、遠国の人々はそのまま捨て置き
候もこれあり、善光寺様広庭に四間四方ほどの穴掘り、
右死人生焼きもこれあり遠国の知らざる死人山に積み重
ね右の穴に投げ込み云々
と、その惨状を書き留めている。
また、この折大久保の前山寺が堂舎残らず[震潰|しんかい]し、一
面様変わりをし、とても再建できず痛恨の極みで、「いた
し方なく埋橋村の全久院に引き移りたい、なお、地元と
金松寺も承知してくれたので」と大庄屋に願い出ている。