[未校訂]マグニチュード6.9の直撃
文政十一年(一八二八)十一月十二日の朝
五ツ時上刻、三条では未曽有の大地震が
発生した。太陽暦で十二月十八日の午前八時ころのこと
である。地震の規模は六・九の直下型地震で、震源地は
北緯三七度六分、東経一三八度九分、栄町芹山付近とみ
られる。いち早く発行されたかわら版は、「弥彦山は大き
く崩れ、海の中ヘ押し出し、三条町・燕町・東御門ぜき
御堂・大門など残らず揺り倒れ、田畑・山川が崩れ、人
馬・けが人はその数知れず、余震が十四日まで頻発した
古今稀れなる大地震」と報じた。
この地震の被害地域は、信濃川に沿った長さ二五キロ
メートルに及ぶ楕円形の地域で三条・燕・見附・今町・
与板などの家屋はほとんど全壊した。被災地全般で全壊
一万二八五九軒、半壊八二七五軒、焼失一二〇四軒、死
者一五五九人、けが人二六六六人、堤防の欠壊四万一九
一三間という大きな被害であった。所領別では表6のと
おりである。(注、本書157頁表2と同じにつき省略)
地震の前兆
特に被害が激甚であった三条町では、こ
の年の三月二十二日夜大火があり、二ノ
町・三ノ町の目抜き表・裏三〇〇戸を焼失した矢先きの
ことであった。六月ころのこと、上保内にある長泉寺の
井戸が濁った。古来、ここの井戸水が濁れば必ず異変が
あると伝えられてきた。六月に続いて十月の末、再び濁
水した。長泉寺の井戸水は清らかで美味であることから、
広く珍重されてきただけに、村人たちは殊更に不安を感
じていたという。
文政十一年は気候が不順で凶作であった。その上十月
五日に屋根石を吹き飛ばし、大木を吹き折る大風に襲わ
れた。如法寺村では、越後七不思議の一つに数えられて
いた火井が、十月中旬ころからどうしたわけか点火しな
くなった。
地震の四~五日前から毎日、明け方に霧のようなもの
がたちこめ、ひどい時には七~八歩先に立つている人さ
え見えないくらいであった。そして、空が晴れわたった
時には、太陽のまわりに五色の虹のようなものが見えた。
しかも暖気で高い山にも雪がなく、万木が芽をふき、ツ
ツジやツバキ・タンポポなどが開花するなどしのぎやす
い気候だったという。
冬ごもり市の日の災禍
地震当日の三条は、年の瀬を控え、冬ご
もりの準備で賑わう二・七の定期市の最
中であった。西の方から南の方に抜ける雷のような響き
とともに、大震れが襲った。市の日とあって、早朝から
カマドに煮ものをしつらえ、火を焚いていたところへ、
一瞬にして町家が残らず将棋倒しになった。動[顚|てん]した町
民たちは、火の始末どころか、われ先にと逃げたため、
煮売り店から出火した。五ノ町から三カ所、四ノ町・三
ノ町から各一カ所、大町・裏館から二カ所といったよう
に、都合、一三カ所から一度に燃えあがった。町中いた
るところ阿鼻叫喚の地獄図絵さながらの恐慌に陥入っ
た。
東本願寺三条別院の門前、本寺小路では、近郷近在の
農民たちによって、野菜市が立っていた。[市|いち]掛けをする
人たちの立ち寄る茶屋では家人と使用人あわせて九人の
うち、七人が倒れた家の下敷になった。戸口の近くにい
た二人は、いち早く戸外に飛び出して難を免れた。この
茶屋の軒先に出店し、大根や里芋を商っていた百姓夫婦
もまた、倒れた家の[庇|ひさし]の下になって、自力で逃れること
ができなかった。泣きわめいて助けを求めたが、いずれ
もわが身を守るのが精いっぱいで、振り向く人とてなか
った。そのうち、手を貸してくれる人があり、辛うじて
野菜売りの婦人は助け出されたが、夫の方は着衣に火が
つき、やがて[劫火|ごうか]に包まれて焼死した。茶店の七人も同
様に、あえない最期となった。
一方、東本願寺別院の本堂は一五間に一二間の豪壮な
ものであったが、五回にわたって八~九尺ほど揺りあげ
られ、六回目に崩壊した。参詣者の中には潰れた堂に手
足をとられた人たちが多数いた。外へ逃げ出た人の中に
は大地の割れ目に落ちて死亡する者もあった。そのうち、
大地の割れ口から火が燃え出し、寺の台所辺に移り、や
がて一面火の海となった。この火で阿弥陀堂・宝蔵など
の諸堂はもとより、本尊はじめ寺宝のすべてが焼失した。
また鍛冶町の潰れた家から出火した火が燃え広がり、
類焼の危険に迫られた四ノ町の穀物商は、五十嵐川につ
なぎとめてあった自分の[艜船|ひらたぶね]に、帳面や衣類・家財など
を運び込み、妻子・下女共五人を避難させた。間もなく
堤内外の家や、土蔵などが一時に燃えあがったため、風
下にあった船が危険となった。船内は女・こどもだけだ
ったため、船をこぐこともできず、うろたえているうち、
火が船小屋に燃え移った。岸辺一帯は火で戻ることもで
きず、船の五人は、やむなく川へ飛び込んだ。泳ぎに不
馴れな妻と女児一人は[溺|でき]死した。
このようにして三条の町方では、東別院をはじめ、上
は本寺小路・上町・大町・一ノ町・木場・寺町・新小路、
下は三ノ町・四ノ町・五ノ町・六ノ町・鍛治町・八幡小
路・新田・気楽町などが軒並みに倒壊し、類焼した。た
だ、奇跡的に二ノ町だけは、ほとんどの家屋が倒壊した
ものの、火災から免れた。
三条町では、総棟数一七四二棟のうち、一二〇二棟が
全壊した。そして全壊家屋のうち七五三軒が火災で焼失
し、即死者が二〇五人、怪我人が三〇〇余人にのぼった。
即死者には、他領から三条へ来ていて地震にあい、不慮
の死を遂げた人が四六人含まれている。三条市全域にお
ける被災の状況を、廃藩置県当時の藩領別で集約すると
表7のとおりである。人口が[稠|ちゅう]密なうえ火災の発生した
町場はともかくとして、震源地に近い平場ほど、大きな
被害を被ったことがわかる。
地震直後に発生した火災で、煙が三条の上空を覆った。
三条の大変を知って駆けつける人があっても、手のくだ
しようもなかった。親類縁者を尋ねても、どこへ避難し
たのか見当さえつかなかった。鍋やかまはもとより、味
噌・漬け物の類にいたるまで、ことごとく失った町民は、
早速路頭に迷った。食物とみれば、誰れ彼れの見さかい
もなく奪い取って食べるといった状態がみられたとい
う。焼け跡は二~三日の間くすぶりつづけ、死臭や焼焦
げたにおいが風に乗って、二~三里四方に漂ったとも伝
えられる。
村々の被害状況
高崎藩領の一ノ木戸・田島両村でも、三
条町と同様な被害を被ったが、ここでは
さらに、五十嵐川の堤通りが二四六間余にわたって亀裂
が入った。同領の裏館村では、潰れた家二〇一軒のほぼ
半数が類焼し、四五人が即死した。
大崎方面でも潰れ家や即死者があったが、町場ほど大
きなものではなかった。中新・籠場などでは、家の全壊
には至らなかったものの、堤防が一三間にわたって大崩
れし、二〇五間が損傷を受けた。東大崎村では一三カ所
にわたって山が大きく崩れた。上野原では、往還道路が
七〇間にわたり陥没し、田圃の所々で砂を吹き上げた。
柳沢の山中では五カ所が大崩れし、山道一〇〇〇間余が
陥没した。上保内の長泉寺では庫裡が倒壊し、本堂・太
子堂・鐘楼などが大破した。成沢・二ツ山などの人家は、
さほどの損傷を受けなかったとはいえ柱や梁を折られ、
家が倒壊寸前となったところでは、地震小屋を建て、二
表7 三条地震の被害状況―廃藩置県当時の藩領別―
町村名
領別
大字名
全壊
半壊
焼失
即死
怪我人
三条町
村上藩領
三条,島田
439
軒
90
軒
763
軒
205
人
300人
高崎藩領
一ノ木戸,田島,東裏館,西裏館,荒町,新光,嘉坪川,北中
746
162
138
135
145
栗林村
新発田藩領三貫地新田,柳川新田
池之端・桑名藩領
柳場新田,須戸新田
40
23
村上藩領
石上,栗林
52
6
13
5
井栗村
幕府領
塚野目,鶴田,北野新田,白山新田
153
33
8
10
新発田藩領
大宮新田
村上藩領
下谷池,西潟
25
9
1
1
1
三日市・池之端藩領
井栗
192
43
20
本成寺村
村上藩領
四日町
13
8
1
本成寺領
東本成寺,西本成寺
29
5
新発田藩領
西中,五明,金子新田,袋,南入蔵,入蔵新田,曲淵,諏訪田,白山新田
44
18
5
7
幕府領
東鱈田,西鱈田,月岡,新保
212
44
27
桑名藩領
吉田,如法寺,片口,長嶺
63
52
5
6
大崎村
村上藩領
東大崎、三柳,牛ケ島,柳沢,敦田,三竹,籠場
103
86
15
12
新発田藩領
上野原,下保内
24
11
1
3
2
高崎藩領
北入蔵,下坂井,西大崎,中新上保内
134
66
3
15
大島村
村上藩領
上須頃,下須頃
99
58
17
72
新発田藩領大島,代官島,荻島,井戸場
52
35
1
計
2,420
744
903
444
595
十余日をこの小屋で送った。三十余日の間、連日、南の
方からドドンという地鳴りを伴った余震が続いたため
で、その恐しさは筆舌には表わせないものであったと記
録されている(『中越大変地震録』)。
牛ケ島・三ツ柳・敦田や西潟・谷地などでは、人家の
半数は全壊し、残りのほとんどが半壊した。鶴田・塚野
目・須戸新田などでは、部落の約三分の二が全壊し、三
分の一が半壊した。
信濃川沿いの三貫地新田では、堤通りが陥没したため、
少しの出水でも水が堤を越す状態となった。堤防の亀裂
の中には、二[尋|ひろ]の竹が届かないほど深いものもあった。
柳川新田の通恵寺は、本堂・庫裡をはじめ、建具・法具
などが大破した。七間半四方の本堂の柱が二尺余も礎石
からはみ出し、内陣・外陣の柱一〇本が折れ、南ヘ傾い
た。
対岸の荻島新田地内の堤外地では、長さ八、九尺、周
囲四、五尺くらいの黒ずんだ埋れ木が、地下から揺り出
され、二、三尺ばかり畑に突き出した。代官島新田から
井戸場新田にかけては、地面の割れ目から水や砂を噴出
する流砂現象がみられた。吹き出て堆積した砂は三、四
尺くらいから、多い所で一丈くらいもあった。砂は赤砂
や黒砂であったから、作物などには有害なため、砂を取
り除くのに苦労した。他の村々でも数十カ所の田圃で、
五寸から一尺くらい砂が吹き出、江筋数カ所でも砂の除
去や掘立普請に多数の人夫と費用が必要であった。
信濃川の堤外地を利用した畑では、二、三〇間、場所
によっては五〇間から一〇〇間、特に長い所では三〇〇
間から四〇〇間にわたって、幅二、三尺くらいから六、
七尺、あるいは二、三間、深さ三、四尺から八、九尺ほ
どの地割れが十余カ所もでき、耕作が不能になった。そ
こで、被害を受けた農民は、それぞれ人夫を雇い、復旧
に当った。
須頃は震源に近いだけに、家屋の被害も大きく、死傷
者も多かった。上須頃では全壊家屋が六三戸にのぼった。
上・下須頃の堤通りが一一九二間も損傷し、下須頃では
多数の立木が倒れた。上須頃から井土巻間の江筋では三
〇〇間にわたって、平均三尺五寸くらい砂が吹き出た。
嵐南の袋は、二〇戸の部落がことごとく潰れ、即死者
が三人あった。東・西鱈田ともども平場の被害は、山手
の長嶺・吉田・如法寺にくらべて大きく、人家のほぼ三
分の二が倒壊し、残りが半潰となった。如法寺では地震
の際、田圃の水が湧き立ちところどころで一、二尺くら
い水が吹き上げ、地面の各所から火が出た。そこで七、
八日間昼夜にわたり交代で火の番を立てた。また、如法
寺と月岡の間を提灯をもって歩くと、提灯に火がついて
燃えてしまった。はじめのうちは自分の不注意のせいと
考えていたが、幾日たっても誰もが同様であったので、
狐か狸の仕業だろうと、夜道を歩く人もなかった。実は
地震による地殻の変動で、天然ガスが地震前の三倍の勢
いで噴出したためであった。しかし、数日後にはもと通
りにおさまったという。
東鱈田・西鱈田・金子新田・袋などでは、地殻の変動
が激しく、各川の川底が上昇したため、耕地の排水が悪
くなり、湛水するようになった。
本成寺本山の本堂は、一、二寸地にのめり込んだ程度
であったが、庫裡は壁が残らず損傷し、柱が傾いた。番
神堂は西南へずれ、拝殿の柱が折れたため、西南へ一尺
程傾き大破した。釣り鐘は、掛け金が切れて落ちた。こ
この石の鳥居は倒壊し、細かく折損し、石塔は残らず倒
れた。門前の民家は軒並みに損壊した。
三条地震と良寛
地震の当時、七十一歳の僧良寛は、三島
郡和島村島崎の木村家の一隅に身を寄せ
ていた。良寛は災害にたいそう心を痛め、地震後、数編
の詩や歌を作っているが、日ごろ親交のあった東裏館の
真言宗宝塔院の隠居、隆全和尚ヘ宛て、つぎのような書
簡を書いている。
「此度三条の大変承わり[信|まこと]に恐れ入り候。御尊体如
何遊ばされ候や。宝塔院住持如何遊ばされ候や。三浦
屋如何成り候や。もし命有り候はば宜しく御伝言御頼
み上げ申し候。其他一一筆紙に尽し難く候。此方大い
にいたみ候ヘども、野僧が草[庵|あん]は無事に御座候。御心
安くおぼしめし下され度候。早々頓首
霜月廿一日
宝塔院御隠居様 良寛」(書き下し文)
文中の三浦屋は、三浦屋幸助のことで、良寛信奉者で
あった。
良寛は地震の惨状を目で確かめずには居れなかった。
老軀をおして、三条まで足を運び、三条の[市|いち]に来て、
ながらヘむことや思ひしかくばかり
変はりはてぬる世とは知らずて
かにかくに止まらぬものは涙なり
人の見る目も忍ぶばかりに
と詠んでいる。目前の地獄絵に、良寛の目から涙が止め
どなく流れたのである。
隆全和尚は、住職隆観とその弟子覚明とともに、地震
で不慮の死を遂げた無縁仏の骨を拾い歩いた。そして檀
家や裏館村庄屋などの喜捨を得て、宝塔院境内に地震亡
霊塔を建立し、被災者を懇ろに葬った。
地震後の救済
地震発生の当日だけで、人体に感じた余
震が四〇回もあった。その後も群発的な
余震が続いたため、袋や西鱈田・東鱈田などでは、家が
全壊したものはもとより、半壊した村民たちは、屋敷内
や道ぎわの野原などに[簀|すのこ]で囲った掘立小屋を建て、[簑|みの]笠
を着たまま夜通し風雪をしのいだ。
三島郡上桐村の庄屋元では、三条の被災を聞き、即刻、
人足二〇名を引き連れ馳せ参じた。諸藩では早速、領内
の見分をおこない、炊き出しをはじめ、諸手当を講じた。
村上藩では三条町の全壊寺社には米一俵ずつのほか、寺
院には金一朱宛、神社には村上の塩引き二匹宛を与えた。
大庄屋と御用達には、米一俵と村上の塩引き三匹ずつ、
庄屋には米一俵と村上の塩引き二匹ずつを支給した。百
姓には米一俵に松前塩引き一匹ずつ、死者のあった家に
は人数にかかわらず、一軒について二分ずつ与えたので
被災者は当座をしのぐことができた。半壊のものには米
二斗ずつ、他領のもので三条町に借家していたものには、
一軒について一斗ずつを与えた。しかし、三条町で居住
が難しくなり、離散するものが多くあったため家作して
いるものには桁から上の道具が与えられた。
一方、上須頃村に対しては、全壊の家には籾二俵と松
前塩引き一匹ずつ、庄屋には籾二俵と塩引き二匹、半壊
の家には籾一俵ずつ、死者の出た家は、一軒について金
二〇〇疋、合計籾一六二俵、金四両、鮭の塩引き二匹、
松前塩引き六五匹を与えた。
朱印地の本成寺山内では、十一月二十一日、取りあえ
ず家のつぶれたものには白米五升ずつ、死亡一人につい
て銭五〇〇文、しめて、白米七斗五升、銭二貫文が支給
された。その後、四五軒に玄米一斗一升一合ずつ、四軒
に五升ずつが給与された。桑名藩の預り地では、全壊に
ついては、十五歳から五十九歳以下の働きざかりのもの
には一人一日五合、女は四合ずつ、十四歳以下六十歳以
上の男女には、一人一日三合ずつ、ともに二〇日間にわ
たって救米が与えられた。また死者一人について、施餓
鬼料として銭五〇〇文ずつが贈られた。さらに、家作そ
のほかの手当金として、全壊一軒について金一両二分、
大破一軒につき金二分二朱ずつが庄屋を通して施与され
た。
また、これらの村々では、郷蔵が打ち崩れ、貯穀が散
乱した。そのうえ、大雨が降ったため、穀物が泥まじり
となった。そこで、濡れた穀物を乾燥したが、雨や雪に
見舞われ、保有してあった半数余の量が腐敗したため、
減穀方を勘定所に願い出ている。
月岡村ヘは手当米五五俵と金一一八両のほか、死者一
人について一分ずつが手当された。
高崎領の一ノ木戸村では、庄屋の小林勝清が、一ノ木
戸詰めの郡奉行堤新八郎に懇請して、五十嵐川に繫留し
てあった収納米で、即日、炊き出しを行なった。そして
再度にわたって、藩に村民の救恤を要請した。藩では貧
富にかかわらず、全壊の者には男一人について一日米二
合五勺、女一合五勺、家を焼失したものには、一人一日
について男は米五合、女は二合五勺ずつ、三〇日間給与
した。加えて、潰れ家には、家作料として一軒当り金一
両二分、半壊れの家には、その半分が支給された。また
怪我人や病人の治療のため、医師の桑原透迪を派遣し、
薬代を施与した。
さらに、飢餓状態にあるものには、米が施与されたが、
その内訳は、一ノ木戸村で一三〇俵、東、西裏館で一四
〇俵、田島四〇俵、荒町二〇俵、坂井八俵、新光一〇俵、
入蔵八俵、嘉坪川六俵、西大崎四四俵であった。
新発田藩では、避難小屋を掛けて被災者を収容すると
ともに、領内の難渋者には、米粥を炊いて与えた。施粥
のため、一日三石余の米が必要であった。
復興資金の貸付け
地震による廃虚から立ちなおるために、
復興資金が貸付けられた。三条町では表
8のとおり、上町ほか八町がそれぞれ地震直後の十一月
中旬から十二月中旬にかけて、各町内ごとに一括して借
用証文を町会所に出している。個々に借り入れた額は町
内によって差異があり、一~二両の少額のものから、一
人で七〇両を拝借したものもあった。借用金で最も多か
ったのは、六両から一〇両が七二人、五両が五九人、一
一両から二〇両が三九人などで、しめて一九九人が二一
一七両を借り受けた。『三条地震御拝借金連印帳』による
と、家屋敷を担保とし
て、借用金は二年据え
置きの五年年賦で償還
することで、利息は月
一分宛となっている。
元金の据え置き期間中
は、利息だけを年々十
二月に納め、年賦期間
は元金に利息を添えて
返済するというもので
あった。
しかし、被害があま
りにも大きかったう
え、凶作の追い打ちな
どがあって、返済が滞
りがちであった。そこ
で天保六年(一八三五)
一月には、改めて証文
を書き替え、借財を継
続した。この時点における鍛冶町の借り入れ総額は、四
二三両二朱と永二貫五七三文七分六厘であった。
貸付資金は、役所から四八〇両が捻出されたほかは、
三条陣屋の要職ないしは御用達の商人によって賄われ
表8 三条町の町内別拝借金
町名
拝借金
人数
町名
拝借金
人数
上町
279
両
18
人
四ノ町
618
194
15
177
34
330
49
両
34
人大町
385
38
五ノ町
一ノ町
85
―
八幡小路
二ノ町
50
―
鍛治町
三ノ町
134
11
計
2,117
199
た。すなわち、塩野谷源助と惣益講から五〇〇両、長谷
川吉右衛門が二〇〇両、石田善助・大橋甚三郎がそれぞ
れ一〇〇両、目黒吉十郎が七〇両、広川孫四郎が五〇両、
その他から二〇〇両が用立てられた。
住居の復興については、二ノ町の呉服商で[重立|おもだ]ちであ
った中村松右衛門の場合、地震後発生した火災から類焼
を免れたものの、居宅は打ち崩れ、家財道具・建具類を
砕かれた。地震から四日経った十六日に、小千谷の小村
屋小兵衛が大工や人足を大勢連れてきた。小村屋は飯米
や味噌・ローソクの類まで持参して、潰れた家の仮普請
を行い、十二月一日に小屋から仮家に移ることができた。
また、三ノ町の薬種商長谷川源助宅では、大雪の中、ま
ず雪を片づけ、翌十二年の正月十八日に同家の分家を建
てた。雪中壁工事ができないため板仕舞として、正月二
十三日に家内全員が引越した。そして、春を迎えた四月
六日から自宅の普請をはじめ、あらましできた六月下旬
に店舗を本宅に移した。このようにして、家内全員が本
宅に復帰できたのは、造作が完成した八月のことであっ
た。下層の町民たちの復興の辛苦ぶりがしのばれる。
また、東・西保内・塚野目・鶴田・須戸新田・白山新
田・東、西鱈田・袋・長嶺・如法寺・吉田などの村々で
は、全壊の一軒につき金一両宛、大破した家一軒につき
金二分ずつを、夫食などの手当てのために借用した。こ
の拝借金は、地震の翌年から五カ年間据え置きのうえ、
十五カ年賦で返済された。
本成寺村では、地震の年の十二月に、出雲崎代官所か
ら、百姓を継続するための資金として、金一五両を拝借
し、無高の小前二〇軒が金三分ずつ均等に配分した。こ
の金は、翌年から三カ年据え置きの後、年一両二分ずつ
一〇ヵ年賦で返済した。
供養塔と別院の建立
地震で物故した人たちの霊をまつる供養
塔と、多数の物故者を菩提するために寺
院が建立された。八幡町にある真言宗医王山泉薬寺境内
には、「文政十一年十二月建立」と刻字された総丈け三・
七メートルの宝筐印塔がある。材質は佐渡石で、原石は
佐渡から船積みされ、信濃川をのぼって運びこまれたも
のと考えられる。塔身には四面に四仏の種字が彫られて
おり、典型的な供養塔となっている。
この寺は、三条城が須頃嶋から古城跡へ移城の際、嶋
の内から現在地に引き移ったと伝えられる古寺で、往時
は村上藩主の祈願寺であったことから、村上領内におけ
る犠牲者の霊を供養するため、建立されたものとみられ
ている。
東裏館の真言宗多宝山宝塔院境内には、鎌倉中期ころ
の様式をとった、高さ約四メートルの大きな五輪の地震
亡霊塔がある。五十嵐川沿岸で産出される安山岩でつく
られたこの塔は、基礎の上に方・円・三角・半円・宝珠
形を積み上げ、地輪・水輪・火輪・風輪・空輪が表され
ている。礎石の正面には、「地震亡霊塔」と大きな文字が
陰刻されてある。石工は鹿峠村の五郎兵衛で、空輪から
地輪までの各輪に、五大種字の四転が刻まれている。願
主は、この寺の一一世隆観和尚とその弟子の法印覚明。
檀家の土田宅右衛門、小林太郎兵衛、裏館村の庄屋・長
谷川左源次等で、地震の翌年、八月十六日に建立された。
覚明は地震当時宝塔院にあって、住職の隆観や隠居で当
寺中興の開山隆全を助けて、地震で不慮の死を遂げた無
縁仏の骨を拾い、この供養塔に葬ったと伝えられる。な
お、この地震亡霊塔は、昭和四十七年四月、三条市の文
化財に指定された。
三条地震から四年後の天保三年(一八三二)八月には、
地震による多数の物故者を菩提のため、浄土真宗本願寺
の三条別院が建立された。安楽寺住職が発願奔走して、
村上藩主・内藤紀伊守から寺域三〇〇〇坪の寄進を受け、
宗派を問わず、広く浄財の喜捨を募ることを許され、京
都・西本願寺の掛け所として造立されたものである。通
称西別院と称されているこの寺では、年々、地震の日の
十一月十二日を宗祖の報恩講の初日として、震災物故者
の追悼法要が営まれてきた。建物は、明治十三年五月の
糸屋火事で焼失、同十七年五月再建されたが、大正九年
六月、再び伽藍を焼失し、昭和二年、鉄筋コンクリート
造りの本堂が建立された。これまで、古城町通りは西別
院の境内でさえぎられ、裏館へ通り抜けることができな
かったが、再建の際、境内地の西半分を売却したため、
現状のように貫通するようになった。
越後地震くどき
地濃の翌年には、震災の惨状と社会の
頽廃を痛烈に詠みこんだ「[瞽女|ご ぜ]くどき」
が広く流布した。三味線を携え、農山村の各戸に門付け
しながら歴訪する、女旅芸人の瞽女たちによって、「地震
くどき」が語られた。三条地震にまつわる瞽女くどきに
は、『瞽女[口説|くどき]地震の身の上』と『越後地震口説』の二冊
の板本が現存する。前者は文政十二年刊行の素朴な板本
で、斎藤真幸が書いたもの。板本の表紙には、泣和津地
声太夫とあり、作者の戯名がしるされている。板元は、
きたしやのひま右衛門とある。作者の斎藤真幸は通称七
兵衛といい、神官で国学者の古川[茂陵|もりょう]や雛田[葵亭|きてい]等につ
いて、皇典漢学を学んだ。兄、真卿の跡を継ぎ、幕僚で
桑名藩預り地であった加茂・矢立新田の名主となった。
真幸は余暇に俗謡をつくって、村民の気風の改善に役立
たせてきたが、中でも、広く唄われてきたのが、この地
震くどきである。彼のつくった『瞽女口説地震の身の上』
は、後に明治天皇の天覧に供せられたとも伝えられてい
る。
一方、『越後地震口説』については、作者も出版社・刊
年も不明であるが、語りの大部分が『瞽女口説地震の身
の上』と同じもので、板木の彫りをはじめ、洗練された
四図の挿絵や造本などから、『瞽女口説地震の身の上』を
改作して、江戸で刊行されたものと思われる。