[未校訂] 江戸時代の災害の中で、文政十一年十一月に起きた三
条地震については、当時の状況を記した史料・文書など
が、三島町にも残っているので、取り上げて次に紹介す
ることにする。
三条地震
文政十一(一八二八)年十一月十二日
朝、中越地方は大地震に見舞われた。
上条の庄屋、原佐左衛門は「前代[未聞|みもん]の大地震にて、雪
はちらちら降り積もり、三条町はじめ十里四方皆々[潰|つぶ]れ
……」と記している。
世にいわれる三条地震である。地震の規模は、その被
害の記録によって推し量るしかないが、『三島郡誌』には、
「蒲原・三島二郡にわたり、[全潰|ぜんかい]九、八〇八・[平潰|ひらつぶ]れ七、
二七六・焼失一、二〇四・死者一、四四三・傷者一、七四九」
とあり、大地震であったことがうかがい知れる。
「長命寺過去帳」によれば、その被害は「第一番三条・
第二番見附・三番今町・四番燕町・五番与板と申すこと、
誠に前代未聞の大地震で六、七里四方のうちで、およそ
一万人も死人が出た様子」といわれるほどで、三条を中
心に大惨状を呈したのである。
脇野町では、つぶれた家一六一軒・即死者五人・けが
人一一人、吉崎ではつぶれた家五五軒、上岩井では、つ
ぶれた家一二二軒・即死者三人・けが人四人、新保では、
つぶれた家五四軒・けが人六人、河根川では、つぶれた
家五一軒・けが人二人の被害が出たという。
当地域の惨状は、[信濃屋|しなのや](吉崎)藤左エ門の「地震一件
控」によって知ることができる。
「十一月十二日の大地震に、多くの家屋が即時につ
ぶれ、即死・けが人が出た。まことに天変火急の災害
で、ようやく助かった人たちも、家財・農具ともみな
打ち砕かれ、取り入れた雑穀はもちろん塩・みそ・薪
に至るまで散乱してしまった。さらに、それより引続
き十五日まで四日の間、夜となく昼となく余震がやま
ず、十二日につぶれなかった家も、その度ごとにつぶ
れてしまって、家族は家に住むことができず、老若男
女の差別なく、山林や平野に避難しみんな、おそれお
ののいている。大勢の人たちが、その日その日の食事
にも事欠くありさまで……。」
とある。
ことに、その年は近年にない不作で、村役人や親類・
近所で助け合ったけれども、お互いが被害を受けた者同
士であるため思うようにゆかず、村々では蓄えておいた
米を配給してもらい、ようやく飢えをしのいだ。
しかも寒さに向かう季節ではあり、雪国ということも
あり、小屋掛けによる住居の確保は急を要することであ
った。しかし、大きな痛手を受けた貧しい農民たちにと
って、自力での復興はとても不可能なことであり、その
資金(お手当)の拝借を、脇野町役所に願い出ていたとこ
ろ、
「頸城郡[顕聖寺|けんしょうじ]村(現在の東頸城郡浦川原村)の庄屋源
左衛門がこのような惨状を聞いて深く同情し、祖父の
代から倹約して蓄えておいたお金を被災者を救う資金
に使ってくださいと申し出があり、お代官様がお情け
をもって、その筋とも交渉されて、次の書面のとおり、
けが人はもちろん、家をつぶされた人たちまでも小屋
掛並びに急場しのぎの資金をくだされた……。」
まさに救いの神であり、この奇特な申し出を受け入れて、
出雲崎代官所は、脇野町役所を通じて、救済処置として
小屋掛けの資金・急場しのぎの手当金・即死者・けが人
への手当金などを各村々に支給した。
被災者への手当金
各村々へ支給された手当金の内訳は次
のとおりである。
・脇野町 手当金三六四両二分(小屋掛料一軒一両、
一六一両。急難御救手当金二〇三両二分)。
この外に即死人一人につき一両、計五両。
けが人一人につき二分、計五両二分。
・吉 崎 手当金一二四両二分(小屋掛料五五両。急
難御救手当金六九両二分)。
・上岩井 手当金一九三両二分(小屋掛料五二両。急
難御救手当金一四一両二分)、即死者三人に
計三両・けが人四人に計二両。
・新保手当金一二二両二分(小屋掛料五四両。急
難御救手当金六八両二分)。けが人六人に計
三両。
・河根川 手当金一一五両二分(小屋掛料五一両。急
難御救手当金六四両二分)。けが人二人に計
一両。
合計で、つぶれた家四三三軒(手当金九八〇両二分)、
ほかに即死者・けが人への手当金が一九両二分、合計一、
〇〇〇両の御救金を支給してその救済に当たった。
ほかに、上条村の庄屋原佐左衛門の記録には、
「中条村あらあらつぶれ……」「上条村の家数は五六
軒。山崩れが起こり、土砂が家の中に流れ入り、壁の
落ちた家一六軒。お手当として二〇両をいただいた。
半つぶれの家一軒につき、お手当金は一両二分ずつで
ある。」
とある。
これらの脇野町役所から支給された諸手当金は、返納
しなくてよい一方的にいただくだけのものであったが、
その代わり
「このような処置は特別のはからいであり、深く感謝
のうえ、他国へ逃げ出したり、出稼ぎに出かけたりす
る者があったら、きつく差し止め、春の耕作に支障の
ないようくれぐれも仕事に精を出すこと。」
ときつく申し渡している。
困窮した農民が逃散したり、出稼ぎに出たりして耕地
が荒れてしまうことを、支配者はいちばん恐れていたと
いうことが分かる。
苦しいときのお手当金は、村々にとっては大きな喜び
であり、
「趣、いちいち承知[畏|かしこ]みたてまつり[候|そうろう]。右御手当金御
渡し[成|な]られ[冥加|みょうが]至極、[有難仕合|ありがたきしあわせ]受取たてまつり候。[然|しか]
るうえは、[御仁恵|ごじんけい]の段、小前の者どもへも申し聞かせ、
御高恩の[程|ほど]、後年に至り候とも決して忘却つかまつる
まじく候。」
と素直に感謝の気持ちを表している。
このほか、新保村を例にすると、地震によって、ごく
難渋している者には、かねて蓄えておいた籾を救済手当
米として支給している。新保村には、この支給を受けた
者が一〇二人おり、一人について籾一斗三升一合六勺六
才六毛、合計一三石三斗七升九合が配られた。
与板藩内でも、この度の地震の被害者に対し、惨死者
には銭を支給し、難渋者には、本与板では七二俵、中村
では六七俵、槇原では五一俵、吉津では一〇俵、蔦都で
は一二俵など、郷中で七三四俵が配られ、銭六貫五〇〇
文も支給された。
また、三条に次いで被害が大きかったといわれる村松
藩の見附では、次のような基準で手当米・手当金が支給
されている。
・焼 失 高持は一軒につき米八斗と手当金三分ず
つ。無高は米四斗と金二分二朱。長屋は米
一斗だけ。
・全壊寺は米八斗と松の木五本。渡し守りは米五
斗。高持は米四斗と金一分二朱。無高は米
四斗と金一分。長屋は米一斗。
・半 壊 寺・渡し守り・高持・無高とも米四斗。長
屋は米一斗。手当金は高持が一分、無高は
二朱、寺は松の木五本。
・破 損 無難は手当米・手当金ともなし。
・即死者 大人・子どもの区別なく鳥目五〇〇文ずつ。
こうした基準に基づいて支給された手当米・手当金は表
2のとおりであった(『見附市史』上二)。
与板藩の場合は細かな基準が分からないので比較する
ことはできないが、村松藩見附と比較してみると、脇野
町の場合、即死人への手当金・つぶれた家への小屋掛料
表2 地震手当米・金の給与 ―本所組―
高持
無高
寺
潰家
軒数(軒)
151
140
2
1
25
3
322
手当米(石)
60.4
56.0
1.6
0.8
2.5
1.5
122.8
手当金(両分朱)
56.2.2
35.0.0
松の木5本
松の木3本
91.2.2
半潰
軒数(軒)
28
20
1
7
1
57
手当米(石)
11.2
8.0
0.4
0.7
0.4
20.7
手当金(両分朱)
7.0.0
2.2.0
松の木5本
9.2.0
焼失
軒数(軒)
2
2
手当米(石)
0.8
0.8
手当金(両分朱)
1.1.0
1.1.0
計
軒数(軒)
179
162
3
1
32
4
381
手当米(石)
71.6
64.8
2.0
0.8
3.2
1.9
144.3
手当金(両分朱)
63.2.2
38.3.0
101.5.2
本寺
寺中
長屋
渡守
計
は、多少余計に支給されており、また、手当米に代わる
急難御救手当金もあり、救済処置としては恵まれていた
ように思われる。
資料には、村々の地震の被害と、それに対する役所の
処置が中心に記録されているが、人々は地震の恐ろしさ
をどう受けとめていたのだろうか。
前述の原佐左衛門は、記録の一ページいっぱいに、大
きな文字で、
南無阿弥陀佛
なもわあミだふち
なむあミだぶ川
(ツ)と記している。この一ページが、文政の大地震に対する
人々の気持ちを如実に物語っているように思われるので
ある。