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項目 内容
ID J2700113
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1828/12/18
和暦 文政十一年十一月十二日
綱文 文政十一年十一月十二日(一八二八・一二・一八)〔中越〕
書名 〔燕市史 通史編〕H5・3燕市編・発行
本文
[未校訂]2 三条地震
過去帳の伝え
文政十一年(一八二八)十一月十二日、
午前八時頃に大地震が発生した。世に
いう、三条地震(越後地震)である。小高の徳蓮寺(真宗大
谷派)の過去帳には、次の様に記録されている。
「文政十一戊子年十一月十二日朝辰上刻、大地震につ
き、本地廿七軒・新田拾二軒都合三拾九軒家数寄崩
し、その外皆半つぶれに相なり、即死三人怪我人十
人ばかり、当寺御堂七八寸南方へ相傾き、[庫裏|くり]西南
へ五六寸相傾き、柱四五本かしげ、戸障子大概相砕
け、内陣前机微塵に相なり、その際いたみも筆紙に
尽しがたし、(略)さて、河辺突き崩し、川に入り、
または[畑|はたけくち]口二尺位に相われ、青砂あまた吹き出し、
江中の魚岡へ寄り上げ、目もあてがたき風情にござ
[候|そうろう]、さりながら、当寺御本尊並に御宝物つつがなく
奉供つかまつり、七日余小屋の中に安置申し候、さ
てまた、三条寄崩し、即時に大火に相成、御坊所つ
ぶれ出火いたし、御本尊御宝物残らず焼失、誠に愁
歎際限ござなく候、死人百五拾人余、その有り様は
風火地震一時に相起り、世の滅する時いたるや、ま
たは地獄の体相も[斯|かり]やあらんと胆魂消ぬるばかり、
誠におそろしというも言語に絶し、十二日より廿八
日迄昼夜地震より〳〵に来り、夜分水中に七日ばか
り[臥|ふ]す者など、皆小屋を新にかけ、それにて相臥申
し候、委細筆紙に尽くしがたく、十か一分相書しる
し、後代の所見に相そなふるものなり、以上」
 また、井土巻一丁目の長延寺(真宗大谷派)の「長延寺
法名録」、文政十一戊子年の条に、
「十一月十二日朝五ツ時、大地震にて、当村家小屋
多分つぶれ、[別|わけ]て三条多くつぶれ、所々より出火し
て町中焼失す、御坊所両堂つぶれ、番部屋より出火
して、御門内皆焼失す。」
と記されている。
異変続き
文政十一年(一八二八)は異変続きであ
った。六月半過から雨が降り、西川の
西方流域、東は桜林(現巻町)より一帯雨で迷惑、悪作で
困窮も著しかった。七月下旬、八月より米の値段が上が
り、十月頃は一俵金二分あまりとなり、諸方で穀留めが
なされた。上保内村(現三条市)の長泉寺(真宗大谷派)の
井戸水は名水で珍重されていたが、六月頃より薄く濁り、
言い伝えによって変事が起こるものと村人はあやしんで
いた。如法寺村(現三条市)では、越後七不思議の一つに
数えられていた火井が、十月中旬頃から点火しなくなり、
地震後再び点火できるようになった。
 地震三、四日前、明け方から五ツ時にかけて毎日霧が
たちこめ、ひどい時は二、三間先の人が見えないほどで
あった。また、四、五日前から雲の晴れ間に見える太陽
に、五色の輪がかかり、五色目鏡を見る様であったと言
う。そして、山々の諸木に芽が吹き、あたかも春の気候
にもどったと話す者があり、弥彦山では地震前後に山鳴
りがあったと言う。
地震の被害
十一月十二日の朝五ツ時は、太陽暦で
十二月十八日の午前八時頃になる。地
震の規模はマグニチュード六・九の直下型地震で、震源
地は北緯三七度六分、東経一三八度九分、南蒲原郡栄町
芹山付近とみられている。この後、天保四年(一八三三)
に庄内(山形県)・佐渡、弘化四年(一八四七)信州善光寺
大地震が起きているが、いずれも信濃川流域地震帯に沿
った大地震であり、昭和三十九年(一九六四)の新潟地震
は記憶も新しい。
 この地震の被害地域は、信濃川に沿った長径二五キロ
メートルに及ぶ[楕|だ]円形の地域で、三条・燕・見附・今町・
与板などが含まれる。被害の大きかった地域を所領別に
あげると、長岡藩・新発田藩・桑名藩・高崎藩・村松藩・
出雲崎役所支配下の幕領・与板藩などの順になる。被災
地全般で全壊一万二八五九軒、半壊八二七五軒、焼失一
二〇四軒、死者一五五九人、けが人二六六六人、堤防の
決壊四万一九一三間に及んだ。
 地震当日の三条は、二・七の定期市の最中であった。
早朝からカマドに煮ものをしつらえ、火を[焚|た]いていたと
ころへ大地震が起こり、一瞬にして町家が倒壊した。こ
のため煮売り店から多く出火し、一三か所から一度に燃
えあがりたちまち大火となった。町民は我先にと逃げ出
し、逃げ遅れた者は崩れ落ちた[梁|はり]などの下敷きになり即
死あるいは重傷、[潰|つぶ]れ家で[狼狽|ろうばい]していた者は生きながら
焼死した。誰一人消火に取りかかる者なく、町民は鍋・
カマド・飯米・味噌・漬物の類まで焼失してしまった。
死人外諸物の焼けた臭気は二、三里四方へ風に従って[匂|にお]
い渡ったと言う。
 三条町では、総棟数一七四二棟のうち、一二〇二棟が
全壊した。全壊家屋のうち七五三軒が火災で焼失し、即
死者が二〇五人、けが人は三〇〇人余にのぼった。即死
者には、他領からたまたま三条に来ていた者も含まれて
いる。
 地震当時、僧良寛は七十一歳で、三島郡和島村の木村
家に身を寄せていた。良寛は地震の被害に心を痛め、三
条まで足を運び、
ながらへむことや思ひしかくばかり
変りはてぬる世とは知らずて
かにかくに止まらぬものは涙なり
人の見る目も忍ぶばかりに
と詠んでいる。
燕市域の被害
 村上藩八王寺村庄屋(本宮多忠)宅
は、地震の五、六か年前に丈夫第一に
普請した新しい家屋であった。庄屋本人と妻、[伜|せがれ]夫婦は
茶の間にいたが、妻と伜夫婦は表へ駈け出した。庄屋は
わが家が潰れたならば世界に立ちおる家はないと、いさ
さかも心遣いなく逃げ出さなかった。しかし、庄屋宅は
即時に潰れ、庄屋本人は座ったまま火鉢に面部を押し潰
され、妻と伜夫婦も広間出口で即死してしまった。
 道金村では、八人家族の百姓夫婦が早朝に菜を摘み、
里いもなどを背負い三条町の市日に商いに出た。夫婦は
本寺小路錠屋長左衛門宅前で地震にあい、夫は焼死して
しまった。妻は狂いおるうち、伜が[馳|は]せつけ父の死骸を
掘り出したところ、炭のごとく真黒になっていたという
話もある。
 燕市域の各村々の潰れ家・半潰れと痛(傷)家・即死・けが
人・決壊堤防の被書は(表3―91)の通りである。建物は
家・用具小屋・作事小屋・[厠|かわや]・土蔵などが含まれている。
庄屋夫妻と伜夫婦が即死した八王寺村は、家数が六〇軒、
潰れ家三六、半潰れ・傷み・その他の被害をうけた建物
は五八棟、即死一〇人、けが人一五人、決壊堤防三〇〇
間であった。燕町の家数は不明であるが、潰れ家二六九
軒・半潰れ五八軒(百姓六六軒・水呑二五七軒・半潰れ寺
四か寺)その外宮二・大蔵三九・板蔵五〇・木小屋二〇・
庵一か所が潰れたり破損し、死者は二二人であった。死
者のうち五人は他町村の者であった。
 桑名藩領の道金村は家数七〇軒余のうち、六六軒潰れ、
小池村は家数一八〇軒余のうち、半分の家が潰れてしま
った(『越中大変地震録』)。
 潰れ家屋や死者・けが人の多い村は、道金・小池のほ
か、高崎藩領の小高・佐渡・杣木・太田・大曲、村上藩
領の井土巻・八王寺・柳山・杉柳・蔵関・大関・小関・
燕町で、信濃川と中ノ口川沿いの村がほとんどである。
各藩の救済
各藩は被害者にどのような救済策を施
したであろうか。高崎藩ではけが体の
者へ炊き出しし、日数三十日以内潰れ家の者へ男一日二
合五勺・女一日一合五勺五才、焼失の者へは男一日五合、
女一日二合五勺の米を支給している。太田村へは合計一
六五俵余が施されている(表3―91)。
 村上藩では、大庄屋に米一俵と塩引き三匹[宛|ずつ]、庄屋に
米一俵と塩引三匹宛、百姓に米一俵・塩引き一匹宛支給
し、即死者のある家には人数に関係なく一軒に金二歩宛、
けが人へは手当なく、半潰れ家に米二斗宛、借家に米一
斗宛支給している。また、全壊寺社に米一俵、この外寺
院に金二朱、神社に塩引き二匹を施している(『資料三条地震』他)。
 桑名藩預かりの花見村では、二十日の間潰れ家の者で
十五歳から五十九歳まで、一日男米五合・女四合、六十
歳以上と十五歳以下は男女とも一日三合の米が支給さ
れ、死失人へは銭五〇〇文が施された(『資料三条地震』)。桑名藩
本領の道金村や小池村では、三十日の間十五歳から六十
歳以下の者へ、男へ米五合、女子と子供へは米三合が支
給されている(『中越大変地震録』)。
「越後地震[口説|くどき]」に、この時期の様子を次の様に説いて
いる。
「御大名には村上・新発田・与板・長岡・村松・桑
名・会津・高崎、またその他に、御料御陣屋旗本衆
も、思い〳〵の御手当あれど、雪は散らつく寒さは
増さる。外にいられず涙の中に、一家親類寄集りて、
大工いらずの堀立小屋に、[綴|つづ]れかむりて休んでみて
も、雪吹き立入り夜も寝られず、[殊|こと]に今年は大悪作
で、米は高値諸色も高い」
 文政十一年は大悪作で、米価はじめ諸物価高騰の中で、
各藩によって行われた救済も、一時しのぎにすぎなかっ
被害(燕市域)
手当料金他の支給
3斗
18俵 28俵3斗5升
10俵 13俵5升30俵 52俵2斗3升7合5勺50俵 105俵7升5合20俵 38俵1斗(以上、炊出飢餓体の者へ)1俵1升2合5勺2俵1斗1俵2斗1俵5斗
7俵8升7合5勺
4俵5升
―日数30日以内潰家の者へ男1日2合5勺女1日1合5勺5才焼失の者へ男1日5合女1日2合5勺―
寺社 米1俵ずつ
神社へ村上塩引2匹
寺院の金1朱
大庄屋 米1俵、村上塩引3匹
庄屋 米1俵、村上塩引2匹
百姓 米1俵、塩引1匹
即死人 1軒金2歩、人数に関係なし
怪我人 手当なし
半潰 米2斗ずつ
借家 米1斗ずつ
潰家の者15歳~59歳 1日男米5合、女4合 ※桑名藩領
(20日間)60歳以上15歳以下 男女共3合 30日間
死失人へ銭500文 男 1日黒米5合
女 1日同3合
表3―91三条地震
家高(数)潰家―半潰・痛家
即死(男・女)
怪我人
寺・宮・鐘堂潰
その他(痛含)
堤防長
又新村
1
小高村
39
26
3(1・2)
6
53
佐渡村
12
10
6(2・4)
6
杣木村
61
40
11(2・9)
9
宮1
太田村
22
111
9(0・9)
8
200
大曲村
40
28.宮1
4(2・2)
15
240
大船渡村
1
1
長所村
4
32
館野村
2
5
館野池村
1
1
灰方村
8
5
関崎村
2
(以上高崎領)
井土巻村
45
20
9
3(不詳)
4
130
八王子村
60
36
30
10(不詳)
15
鐘堂1
27
300
柳山村
46
14
11(不詳)
41
杉名村
12
7
3
5
寺1
9
杉柳村
31(ママ)
36
1
4(不詳)
40
蔵関村
30
15
6
宮1
17
大関村
16(ママ)
17
3(不詳)
8
15
小関村
85
74
6(不詳)
35
寺1
46
燕町
269
58.寺4
22(不詳,5他所者)(宮2,庵1,その他109)
小牧村
4
10
2
小中川村
5
3
花見新田村
6
1
長渡村
1
三王淵村
1
5
勘新村
2
中川村
3
(以上村上領)
花見村
48
40
4.寺1
8(不詳)
平岡新田
8
1
1
(以上桑名預所)
たことであろう。
越後地震くどき
地震の翌年、地獄のごとき惨状と社会
の[頽廃|たいはい]を風刺・批判して詠んだ「[瞽女|ごぜ  ]
口説」が広く流布した。瞽女は三味線を携え、農山村の
名戸に[門付|かどづ]けしながら歴訪する女旅芸人である。三条地
震にまつわる口説には、『瞽女口説地震の身の上』と『越
後地震口説』などが知られている。前者は文政十二年の
刊行で、作者は斎藤真幸、通称七兵衛である。彼は神官
で国学者の古川[茂陵|もりょう]や[雛田葵亭|ひなだ きてい]などについて皇典漢学を
学び、兄の跡を継ぎ、桑名藩預かりの矢立新田(加茂市)
の名主となった人である。
 『越後地震口説』は、作者も出版者・刊行年も不明で
あるが、内容が『替女口説地震の身の上』に類似してお
り、改作して江戸で刊行されたものと考えられている。
 これらに類似し、語っているものか、もしくは覚えて
いたことを書き記したと思われる口説もあり、その一つ
に「[北越|ほくえつ]地震口説」(巻町松野尾、山賀一氏所蔵)がある。この本は表紙に
明治十八年(一八八五)九月十三日の記載、表紙裏には「し
んぱん屋ん連ぶし」とある。蒲原地方の発音・方言がそ
のまま表記されており興味深い。
 地震口説の構成は、地震の状況被災の有り様をあげ、
当時の社会風潮を述べ、士農工商や儒者・僧侶・医者・
神官などの教化階級の頽廃した現状やその風刺・批判を
し、地震はそうした社会風潮への警告であるとして結ん
でいる。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 別巻
ページ 161
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 新潟
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