[未校訂]一 文政大地震と良寛(略)
二 与板における町方の被害状況
(前略)
次に、文政大地震による与板町内の被害地図(「文政十
一子年十一月十二日地震ニ付」与板町歴史民俗資料館蔵)
によると、町場全体の被害状況は、焼失一七軒、[潰|つぶれ]家二
六三軒(正確には二五五軒)、半潰九六軒(正確には一一二
軒)、大破四〇八軒、土蔵潰一〇、土蔵破損九一、即死三
四人、けが人一一八人、神社破損はなく、寺庵大破九軒、
社家大破二軒となっている。表2は、町名ごとに被害状
況を集計したものである。この集計によると、町場全体
で約半数に当たる三八六軒が、半潰以上の重度の被害を
受けている。特に被害の激しかった地域は、横町のうち
坂下町・片町、蔵小路、上町、[安永|やすなが]町、船戸町といった
町南部一帯、上横丁(堂前)、下横丁、下新地、および町
北の稲荷町であった。片町~安永町にかけてと、稲荷町
『越後地震口説』のさし絵から震災の惨状
北部では火災が発生した。中町~新町にかけての町央部
の被害は、比較的軽かったようである。
三 村方の被害状況
文政十一年は、天候不順で凶作となった。与板・山沢・
中村・[蔦都|つたいち]・吉津(以上、与板町)・鶴ケ曾根(中之島町)
の各村々から、九月に与板藩役所ヘあてて次のような願
(4)
いが出されている。(意訳、以下同じ)
当村では、夏の間日照り続きで植付が遅れた上に、
出穂の時分には長雨にたたられたため、実入りが悪
く作柄は思わしくありません。百姓一同からの御[検|け]
[見|み]入り願いをこれまでたびたび村役人でおしとどめ
て来ましたが、存外の違作ゆえ、やむなく御検見入
り願いを出すことになりました。[何卒|なにとぞ]願いの通りお
聞き届けいただきたくお願い申し上げます。
このような状況の中で、十一月に地震が発生したので
ある。
表3は、与板藩領内村々の被害状況と手当支給額をま
図2 与板町方における被害状況(模式図)
(「文政十一子年十一月十二日地震ニ付」
により作成)
とめたものである。これによると、被害の大きかったの
が、[本与板|もとよいた]・中田・中村・槇原・原(以上、与板町)、[中|なか]
[条|じょう]・大野新田(以上、三島町)、松ケ崎新田・福原・[末宝|まっぽう]・
中野西・鶴ケ曾根(以上、中之島町)の各村々であった。
この地震で即死したものは、次の通りであった。
本与板村(二人)
庄左衛門妻(二二歳)、源蔵忰(二歳)
中条村(五人)
五郎七忰彦兵衛(一一歳)、同人女子さく、佐之助孫
女子(二〇歳)、新五郎母(八〇歳)、孫左衛門女子
表2 与板町方における被害状況
焼失
家数
潰家数
半潰
家数
被災家
計
焼失・潰
を免がれ
た家数
重被害
度(%)
町名
稲荷町
8
37
7
52
72
41.9
下新地
15
1
16
4
80.0
下横丁
7
1
85
61.5
新町
7
13
20
107
15.7
(北新町)
(6)
(13)
(19)
(82)
(18.8)
(1)
(25)
(3.8)
(南新町)
(1)
中川岸
10
0.0
上横丁(堂前)
7
14
21
0
100.0
中町
5
10
15
76
16.5
(下町)
(2)
(2)
(34)
(5.6)
(中町)
(5)
(10)
(15)
(42)
(26.3)
船戸町
34
26
60
26
69.8
安永町
3
36
14
53
15
77.9
上町
48
25
73
32
69.5
蔵小路
12
12
2
85.7
横町
6
47
1
54
44
55.1
(坂下町)
(1)
(1)
(28)
(3.4)
(宮下町)
(33)
(1)
(34)
(15)
(69.4)
(片町)
(6)
(13)
(19)
(1)
(95.0)
計
17
255
112
384
393
49.4
(「文政十一子年十一月十二日地震ニ付」により作成)
図3 文政大地震当時の与板藩領および周辺略図
(注) 1.太線内が与板藩領、但し地積には関係なくただ各村の所属領を示す。
2.ト…徳川直領 ナ…長岡藩領 ア…会津藩領
ク…桑名藩領 シ…新発田藩領
(前波善学編『与板史こぼれ話』より転載)
表3 与板藩領村々の被害と手当支給状況
潰家半潰
籾支給俵数
15歳以上即死者数
14歳以下即死者数
銭支給額
村名
本与板
23
軒
25
軒
72
俵
1
人
1
人
700文
富岡
2
4
阿弥陀瀬
4
4
中条
43
2
893
2
1,900
大野新田
21
3
46
中田
2
1
6
中村
23
20
67
槙原
11
28
51
1
200
気比宮
4
4
12
1
500
蔦都
6
12
1
2
900
吉津
1
8
10
海老嶋勇次新田
2
7
11
松ヶ崎新田
4
8
17
福原
28
11
68
末宝
28
5
62
2
1
1,2,0
中野西
31
63
1
3
1,100
鶴ヶ曾根
16
5
158
山沢
9
9
堤下
3
7
1731
500
倉谷
2
2
原
24
3
522
1,000
割元新木与一左衛門
5
庄屋吉平
3
計
275
172
736
12
10
8,000
(「関守」により作成)
そり(一五歳)
槇原村(一人)
藤七孫竹次郎(二歳)
[気比宮|きいのみや]村(一人)
清八母(六四歳)
蔦都村(三人)
太惣次妹ちい(一七歳)、量助孫久蔵(一一歳)、
又左衛門孫又六(一三歳)
末宝村(三人)
重兵衛(六一歳)、庄三郎妻(四五歳)、権平忰(二歳)
中野西村(四人)
儀内姉(五九歳)、新右衛門女子たか(一四歳)、
佐次右衛門女子そめ(六歳)、同人忰平内(九歳)
[堤下|つつみした](一人)
万助妻(四九歳)
原(二人)
嘉兵衛妻(五二歳)、弥治兵衛母(六四歳)
即死者の家のほとんどは全壊であった。地震の発生した
午前八時頃には、大半の人々はまだ家の中にいたであろ
う。突如襲ってきた地震による家の倒壊に、逃げ遅れた
老人・女・子供たちが、建物の下敷となって死んでしま
ったのである。
地震による被害は、年貢納入にも深刻な影響を及ぼし
た。中条・大野新田の両村は、地震直後に次のような願
いを与板藩役所へ出している。
私共の村々では、地震により百姓家は残らずつぶれ、
数日の雨もりにて[濡|ぬ]れ米となり、年貢米としての用
が足せません。このような状態なので、年貢上納期
限の延期と金納への変更をお認め下さるようお願い
いたします。
十二月には、松ケ崎新田・鶴ケ曾根・福原・中野西・
末宝の川東五か村からも、右のものと同様の年貢延金納
願いが出されている。
地震はまた、信濃川堤防の破損をもたらした。川東五
か村は同月、さらに次のような願いを藩役所へ出してい
る。
当十一月十二日の大地震にて堤形の大半が裂けてし
まい、割れ目の幅は五~六尺から三~四尺ほどもあ
り、その上地中にめりこみ、中には一向に堤形のな
い所もあり、少しの出水にも欠壊寸前の状態で、来
春の雪解け水でも出ようものなら防ぎようもありま
せん。万一破堤してしまえば、御料所中野組村々や
御当領(与板藩領)は申すに及ばず、川下の新発田藩
領数十か村も亡所となるのは歴然で、石や砂が混じ
り、田地開作は至難のわざで、莫大の損失となって
しまいます。その上、私共の村々はこのたびの地震
で家屋は全壊となり、食料・農具までも失ってしま
いました。ただでさえ当年は越後国一統の凶作で、
百姓の食料である雑穀が不足がちであるのに、家が
なくては当日暮らす場もなく、雪中路頭に迷うほど
の状態であり、今以て仮小屋さえ造りかねている者
もおり、飢えや寒さをしのぎがたく、悲歎にくれて
おります。この上水難に遭ったりしたら、村々大勢
の百姓は餓死するほかはありません。このような状
態ですので、[何卒|なにとぞ]御普請していただくようお願い申
し上げます。
翌文政十二年二月には、この川東五か村とともに与板
村も、[目論見|もくろ み]帳一冊・粗絵図一冊を付して、国役普請を
藩役所へ願い出ている。
吉津・蔦都両村は、地震の被害は比較的軽かったが、
二月、藩役所へ次のような願いを出している。
私共両村では、去年の洪水で囲土手が切れてしまい、
田畑は申すまでもなく百姓家まで数日水堪に及び、
水腐れがひどく[皆無作|かいむさく]となり、御見分の結果、皆無
作引米と決定していただきありがとうございまし
た。しかしながら、田畑一円皆無作のため食料の貯
えもなく、両村とも当日しのぎがたき状態で、やむ
なく他国稼ぎに出ようと考えたものの、そうなると
村方人数が減り、耕作も思うようにできなくなって
しまうため、結局他国稼ぎは差し止めとなりました。
困窮につき、[何卒作夫食米稗|なにとぞさくぶじきまいひえ]・種籾を拝借いたした
くお願い申し上げます。
吉津・蔦都両村では、前年の凶作の際に検見入りを願
い出、見分の結果引米が認められたのであるが、食料の
貯えがないため、作夫食米稗・種籾拝借を願い出たので
あった。
一方、与板組割元[新木|あらき]与一左衛門・庸左衛門父子は、
次のような文面で貯稗六百俵拝借を二月に与板代官所へ
願い出ている。
与板村々は、去年一統凶作の年柄につき、御検見入
りを受けた村もあり、また上様に御苦労をかけまい
として検見入りを受けずに刈り取ってみた村でも思
いのほか実入りが少なかったようです。村々では食
料の貯えもなく、米価高値につき当日しのぎがたき
状態で作夫食拝借を願い出ようという申し出があり
ましたが、時節柄上様のためにならないと考え、私
共より申し聞かせ、おしとどめてきました。しかし
ながら、困窮の者共にて何分にも当日しのぎがたき
状態なので、ぜひとも貯稗六百俵を拝借いたしたく
存じます。二、三年中にはきっと皆上納をお約束い
たしますので、[何卒|なにとぞ]おとりなし下さいますようお願
い申し上げます。
三月、地震の被害は軽かった中田村からも、次のよう
な作夫食米稗拝借願いが藩役所へ出されている。
当村では、去年値付が遅れた上に稲に虫がつき、秋
中洪水に見舞われ水腐れとなってしまいました。百
姓一同から御検見願いの申し出がありましたが、上
様の御苦労を考えて願い出を控えておりました。し
かし、稲を刈り取ってみたところ存外の悪作で実入
りが少なく、御検見入りもしてもらえず、困窮の者
共当日しのぎがたく、[何卒|なにとぞ]作夫食米五〇俵・稗二五
俵を拝借いたしたくお願い申し上げます。
同月、大野新田・中条村・松ケ崎新田・福原村・中野
西村・末宝村・鶴ケ曾根村からも、中田村と同様の作夫
食米拝借の願いが出されている。
また、同年九月、気比宮村(三島町)からは「昨年の地
震で当村地内の村次郎新田用水溜堤が縦横にさけ、用水
が保てなくなったため、村方にて力を尽くして普請を行
ったが、とても用水を保つことができず、このたび新田
を[畑成|はたなり]と変更してほしい」旨の願いが出されている。
四 地震後の救済
地震で家屋損壊の被害を受けた者に対して、村方ヘは
文政十二年四月十一日に、町方ヘは四月十四日に与板藩
から籾が支給された。全壊した家には二俵、半壊した家
には一俵が支給された。庄屋・寺院ヘの支給額は、それ
より一俵ずつ多かったようである。領内全体の支給額は、
七三六俵となっている。さらに、即死者の出た家には、
四月十五日に銭が支給された。一五歳以上には五〇〇文、
一四歳以下には二〇〇文が支給され、銭の支給総額は八
貫文であった。
また、前記のように、中田・蔦都・吉津・鶴ケ曾根・
福原・松ケ崎新田・末宝・中野西・中条・大野新田の各
村々から作夫食米拝借願いが藩に対して出されていた
が、同年七月に願いは聞き届けられた。ただし、米は代
金にて、稗は現物にて渡されることとなった。表4は、
各村々の代金・稗の拝借額を示したものである。中田・
蔦都・吉津の三か村は、地震による直接的被害は軽かっ
たものの、天候不順による凶作で、拝借した代金・稗は
かなりの額にのぼっている。また、同時に山沢・槙原・
中村・本与板・与板(以上、与板町)・気比宮・[中永|ちゅうえい]・[逆|さかし]
[谷|だに](以上、三島町)・[阿弥陀瀬|あみだせ]・富岡・荒巻(以上、和島村)
の計十一か村に対して、稗合計三〇〇俵が藩から支給さ
れている。
さらに八月には、吉津村に五〇俵、蔦都村に一〇〇俵、
中村に七〇俵、中田村に三〇俵、作夫食として籾が藩か
ら支給されている。
凶作と大地震とにより、文政十二年正月から米価が高
騰を続け、三月には米相場が金一〇両につき一八俵、町
米五斗入り一五俵となった。それにつれて諸物価も上が
り、世上不穏な状態となってきた。出雲崎の越前屋、川
東丸山村庄屋、今町中之島大竹分家与文治などが打ちこ
わしに遭うような事態に発展した。そこで、与板藩では、
豪商大坂屋三輪権平・山田四郎左衛門から米三〇〇俵ず
つ、大橋小左衛門・平野六兵衛から一〇〇俵ずつ、その
ほか津兵衛・船津勘七・中山五郎作・門太郎などからも
米を供出させ、藩からの米を合せて合計一五〇〇~一六
〇〇俵を、町家のうち「当日[凌|しの]ぎがたき者」二〇〇軒を
対象に、三月から町会所において、黒米一升六三文、一
人につき一日三合ずつ十日分を、十日目ごとに安売りす
ることとした。この処置により、与板町方においては不
穏な動きに発展せずに済んだが、町続きの堤下新屋敷は、
町家とは別扱いとして安売米の対象からはずされた。こ
のため、堤下を含む与板村は次のような願いを四月に藩
役所ヘ出している。
昨年の凶作と大地震とにより、百姓一同難渋してお
ります。米価はどんどん高騰し、困窮の者共は当日
しのぎがたき状態となっております。町方において
は、このたび米の安売りが行われましたが、当村は
町続きであるので町家同様に安売米の処置を願い出
たもののお聞き届けいただけず、当惑いたしており
ます。御時節柄恐れ入りますが、百姓の難渋救済と
して、せめて米六五俵を五か年賦で拝借させていた
だけるようお願い申し上げます。
ところが、この米六五俵拝借願いも、たびたびの催促
にかかわらず、結局聞き届けられなかった。そこで、「町
表4 村々の拝借金・稗
村名
拝借金
拝借稗
中田
7
両
2
分
朱
107
文
1
俵
3
斗
9
升
1
合
蔦都
20
2
46
4
4
2
吉津
12
2
519
2
4
4
鶴ケ曾根
9
3
168
2
89
福原
11
1
713
2
2
8
松ケ崎新田
3
2
145
3
9
7
末宝
11
2
2
612
2
3
2
中野西
8
2
460
1
4
2
3
中条
12
169
2
4
2
5
大野新田4
3
2
296
1
8
3
(「関守」により作成)
方においては安売米実施の上、半壊・本壊の被害を受け
た者以外にも百姓一同へ金一朱ずつ下されているのに、
与板村にて何も救済がなされないのでは不満が高まり、
好ましくない」との与板村役人の判断で、堤下・倉谷・
原においても、半壊・本壊の被害を受けた者以外に百姓
一同へ地震被災手当として、金一朱ずつを村役場から渡
すこととした。こうして四月二十三日夜、与板村組頭門
太郎宅にて手当金が支給された。しかしながら、町方へ
の藩からの厚い手当支給に対し、村方への手当のなされ
なかった不公平について、与板村としては強い不満が残
ったようである。次のような内容の書面が残っている。
町方へ対し籾のほかに金一朱ずつ支給されたのは、
当村とは違い不公平である。当村はほかの村とは違
い町続きなのだから、町方同様に金一朱ずつ支給さ
れて当然である。ところが、藩は「町方へ一律支給
したのではなく、最初に潰家と記録した家のうち大
工が手入れをして直ったものには籾は支給せず、当
所支給予定の籾が一〇〇俵ばかり余った。その浮い
た分で[小前|こまえ]たちに金一朱ずつ支給したのである」と
弁解している。そんなはずはない。町方では[人気|じんき]が
悪く、出雲崎・川東・今町などで打ちこわしが起こ
っているため、当町でも村方とは格別の差をつけた
ものと考えられる。
藩からの手当支給にあずかれなかった与板村として
は、藩の処置に冷やかな目を注いでいる。
地震により家屋損壊の被害を受けた者へは藩から[焚出|たきだ]
しが施されていたが、五月九日には本壊一人につき一日
二合五勺三日分、半壊一人につき一日二合五勺二日分の
米が支給された。各村々への支給額は次の通りであった。
二斗八升 山沢村
二俵二斗六升 槙原村
二斗一升七合五勺 気比宮村
四俵九升七合五勺 中条村
二俵一斗一升 大野新田
一斗七升五合 中田村
六升七合五勺 荒巻村
三俵一斗八升七合五勺 中村
二斗九升二合五勺 吉津村
一俵一斗七升五合 蔦都村
四俵一斗五合 本与板村
四升五合 富岡村
一升五合 阿弥陀瀬村
一斗三升二合五勺 海老嶋新田
二斗六升七合五勺 松ケ崎新田
三俵一斗八升 福原村
三俵三斗一升七合五勺 末宝村
二俵二斗八升七合五勺 中野西村
二俵三斗七升七合五勺 鶴ケ曾根村
地震でつぶれた家は、その後次第に再建が進んでいっ
た。槙原村佐藤家では、地震による家直しを三月二十三
日夕方から二十五日まで金三両で大工衆に請け負わせて
いる(5)。大工は、山谷村(小千谷市)久賀文右衛門を[頭|かしら]分と
して、同村清蔵・乙蔵、片貝村(小千谷市)八蔵・万平・
熊七・金蔵、[五辺|ごへん]村(小千谷市)佐六、脇之町(三島町)忠
吉、槙原村吉左衛門の計十名であった。七月には、佐藤
家から横町善吉の家作補助として二尺三、四寸から六、
七、八寸までの杉四本と白米三升、八月には同町善右衛
門へ二尺七寸廻りの杉二本と白米三升をつかわしてい
る。大野新田では、七月段階で二三軒中一〇軒がようや
く建前を終えたにとどまっていた。
このような状況のなか、五月に「当地では四、五十年
間に聞き及ばない」ほどの大風が村々を襲った。いまだ
に仮小屋住いであった者は、屋根が大半吹き飛ばされ、
家財道具が散乱するという被害を受けた。畑作物の被害
も大きかった。さらに、秋にはまたしても長雨にたたら
れ凶作となった。こうして、文政大地震による痛手が癒
えきらないまま連年の凶作となり、いわゆる天保飢饉へ
とつながっていくのである。
註
(4)以下、本稿で使用した史料は、特にことわりのない場
合は、すべて「関守」(与板町歴史民俗資料館蔵)によ
る。
(5)槙原佐藤家「関守」
参考文献
前波善学編『与板町史』『与板史こぼれ話』
大島花束編著『良寛全集』恒文社
(編集委員)