[未校訂]第一節 近世の災害
1 地震
(前略)
文政の三条地震
文政十一年(一八二八)十一月十二日、朝
五ッ時上刻(太陽暦十二月十八日午前八時
ころ)に起きたマグニチュード六・九の直下型地震、震源
地は南蒲原郡栄町芹山付近(北緯三七度六分、東経一三八
度九分)と考えられ、被害の大きかった激震地域は信濃川
に沿った南北方向約二五㌖の楕円形の地域であった。
表2はこの地震の被害を領分別に集計したものであ
る。出雲崎代官所の被害も多いが、震央に近い本成寺村
(現三条市本成寺―震央まで約五㌖・家数二九軒・全戸
潰家)なども代官所支配下の村であり(『三条市史資料三』)、被害
の多いのもうなずける。
現町域についての被害は表3にまとめた。この表に記
載した以外の村々の史料は現存しておらず、また内藤家
文書の五か村以外の詳細は不明である。表から当地域の
被害を概観しよう。[崖下|がけした]に屋敷の多い浜筋集落では居屋
敷に山崩れが起き、あるいは屋敷上の山に大割れが入り
いつ山崩れが起こるか心配であった。山崩れによる全潰
家屋がごくわずかあり、山崩れ地盤軟弱による家屋半潰
が二割ほどあった。半潰まで至らなくとも全戸に何らか
の損傷があった。高低差のある田畑は大割れが入ったり
崩れ下ったりした。また、用水堰は使用不可能となり、
用水江筋・作場道・作場橋なども寸断破壊された。これ
らの復旧工事が完了しないまま、翌十二年にかけて出雲
崎地域は大雪にみまわれ、[大雪代|おおゆきしろ]は各地に[湛水|たんすい]となった。
被害に対する救済
地震の起きたとき当町域三九か村
(小木上・下組、稲川古・新料はそれぞれ一村とする)の大部分は幕領
(脇野町附村々と出雲崎附村々があったが代官はいずれも野田斧吉であり同一救済と考える)であり、それら
の村々の救済方法は半潰家に手当金一両一分あて、これ
は返済しなくともよかった。潰家百姓に無利息年賦相続
料拝借金・御手当小屋掛料[夫食|ふじき]代・夫食米・急破御普請
所は御救普請、自普請所でも大破の場合は御普請とする
などの救済を行った(資料編Ⅱ二〇ページ)。
具体的に現存史料で確認できるのは次のとおりであ
る。相田村半潰五軒に対し各一両一分の手当金を支給
図1 三条地震の被害地域(宇佐美龍夫『大地震』より)
表2 三条地震の所領別被害
領分
全壊
半壊
焼失
死失人
怪我人
堤欠損
典拠
村上藩
1,351
軒
578
軒
766
軒
287
人
1,220
人
13,253
間
①
高崎藩
1,184
502
138
145
196
1,959
①
新発田藩
1,660
715
121
242
136
10,416
①
館村代官所
136
34
15
①
沢海藩
259
107
39
②
与板藩
621
373
18
76
160
650
①
長岡藩
3,657
4,559
442
552
14,296
①
出雲崎代官所
753
334
101
②
七日市陣屋
35
55
6
5
①
村松藩
1,143
371
159
230
226
1,339
①
桑名藩
1,305
437
1
109
②
池端藩
237518
137
②
その他
73
2
14
23
②
計
12,859―
8,275―
1,204―
1,559―
2,666
41,913
(注) 典拠欄の①は文部省震災予防評議会編『増訂大日本地震史料』②は五十嵐与作編
『資料三条地震』による。社寺等は含まない。『三条市史』
表3 文政11年・三条地震による出雲崎地域被害(現存資料判明分のみ) △半潰○全潰
被害・
場所
山崩潰家
半潰
家大損傷
家損傷
居屋敷山崩
居屋敷上大割
田地大割崩
用水堰
用水溜
用水江筋
作場道
作場橋
その他
出典
村名
船橋
3
全
2
5~
5~
△2
△
割崩
大割
田中
2
全
5
5~
5~
△
大損
畑150間程5~6尺崩下
小木上
全
1
○1
○
○
○
内藤家文書
小木下
1
1
1
5~
○
○
○
八郷川堤田畑全崩
稲川新
1
4
全
○
○
5か村寄合郷蔵大損
相田
5
権頭家文書
松本・山谷
悪水払400間余川中崩込・用水路震崩→大雪代湛水
当時合18軒
高橋家文書
沢田
用悪水吐込樋1・堤崩
山田・金泉文書
乙茂
用悪水吐込樋1(大寺と立合)・往還道橋1(馬草と立合)
金泉家文書
馬草
用悪水吐埋樋1 往還道橋1(乙茂と立合)
山田家文書
出雲崎
町家の土蔵不残壁ふるひ落とし、屋根石落ちる事雨の如し
浄玄寺過去帳
(資料編Ⅱ・『出雲崎編年史』・古文書所蔵者の原文書より作成)
(資料編Ⅱ一八ページ)、沢田村急破御救御普請(用悪水払樋・堤上置
等)に、永一二貫四五二文一分(出雲崎町小木山田家文書)、乙茂・大寺
立会急破御救御普請(用悪水払樋ほか)に一八両と永一七
二文二分(出雲崎町乙茂金泉家文書)、馬草村急破御救御普請(用悪水吐
埋樋ほか)に永一四貫八九九文五分などである。
これらの[御下金|おんさげきん]は形式的には幕府の出費であるが、実
質的には出雲崎代官支配地域の高持百姓の[義捐金|ぎえんきん]による
ものが多かった。例えば乙茂・大寺立会急破御救御普請
に一八両と永一七二文二分のうち、一六両が高持百姓の
義捐金であった。
これらの行為に対し地震後ほぼ一年たった文政十二年
(一八二九)十一月、高持百姓で差出米などを行った者に
褒賞がなされ(資料編Ⅱ二〇ページ)、幕府や藩の財政力では自然災
害の対応も十分でない状態を露呈していた。