[未校訂] 太陽暦で一二月一八日の午前八時頃のことである。規
模は六・九の直下型地震で、震源地は北緯三七度六分、
東経一三八度九分、栄町芹山付近とみられる。いち早く
発行されたかわら版は、「弥彦山は大きく崩れ、海の中へ
押し出し、三条町・燕町・東御門ぜき堂・大門など残ら
ず揺り倒れ、田畑・山川が崩れ、人馬・けが人はその数
知らず、余震が一四日まで頻発した古今稀れなる大地震」
と報じた。
この地震の被害地域は、信濃川と中ノ口川上流に沿っ
た長さ二五㎞に及ぶ楕円形の地域で、三条・燕・見附・
今町・与板などの家屋はほとんど全壊した。被害地全般
で全壊一二、八五九軒・半壊八、二七五軒・焼失一、二
〇四軒・死者一、五五九人・けが人二、六六六人・堤防
の欠壊四一、九一三間という大きな被害であった。被害
地域及び所領別では次の図表のとおりであり、本村地内
でも三条・燕に匹敵する規模であったことが察せられる。
この三条大地震により信濃川の隆起陥没があり信濃川
の河筋も動いている。国道八号線の大島地内に通りかか
ると、一六〇年過ぎた現在でも堤外の野菜地帯に地震前
の河筋の状態をうかがえ知ることができる。
文政一一年は気候が不順で凶作であった。その上、一
〇月五日に屋根石を吹き飛ぱし、大木を吹き折る大風に
襲われた。三条の如法寺村では、越後七不思議の一つに
数えられていた火井が一〇月中旬頃からどうしたわけか
点火しなくなった。そのほか清らかで美味であることが
広く珍重されていた井戸水が濁ったり、村人たちはこと
さらに不安を感じていたという。
地震の数日前から、毎日明け方に霧がたちこめ、ひど
い時には七~八m先に立っている人さえ見えないくらい
であった。そして空が晴れ渡った時には、太陽のまわり
に五色の虹のようなものが見えた。しかも、暖気で高い
山にも雪がなく、木々が芽をふいたり、ツツジやツバキ・
タンポポなどが開花するなど、しのぎ易い気候だったと
いう。