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項目 内容
ID J2700101
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1828/12/18
和暦 文政十一年十一月十二日
綱文 文政十一年十一月十二日(一八二八・一二・一八)〔中越〕
書名 〔栄村誌 上巻〕栄村誌編さん委員会編S56・8・31 栄村長発行
本文
[未校訂]三条地震文政十一年子年(一八二八)十一月十二日の
三条地震は日本災異志・日本震災凶饉考は
じめ多くの郷土関係誌に記録を留める大震災であった。
地震の規模は、マグニチュード六・九(東京天文台編―理
科年表五二年刊)というから新潟地震の(七・五)、関東震
災(七・九)に近い烈震で震災はいうまでもなく、三条附
近(信濃川べり)で被害の大きいのも当然であった、震源
は北緯三七度六分東経一三八度九分と記してあるが、実
に栄村小古瀬・善久寺附近であるという最近の研究調査
である。
(文政十一年十一月十二日)
 十二日は三条の定期市である。漬菜大根市の真盛り。
「五ツ時上刻(午前八時)頭上ニテ雷ノゴトキ鳴リ渡リ、
世界中胴ブルイの音イタシ山モ崩ルル如キノ大地震ニテ
……」と与板町長明寺過去帳記録に書きはじめ「…長岡
モ大地震ニ候エドモ、是ハ御城下ハ無難の様子、去リナ
ガラ長岡領北組下河根組(注、信濃川沿い)ハ大乱惣ツブ
レ、三条町ハ、地震後大火、御坊所ハ別シて丸焼。五(御カ)尊まで
焼申候由、此度の地震ニテ三条町残らず丸焼、今町見付
モ地震後出火ゆえ是も丸焼…(中略)…三条町ニテ死人数
凡千人アマリ、その外市日の事ゆえ他所他村の人死候事
ハ数知れず(中略)この度の大変は第一番三条、第二番見
附町、三番今町、四番ツバメ町、五番与板町と申事マコ
トニ前代未聞の大地震ゆえ、六七里四方のうちにて凡一
万人モ死人コレアリ候様子(以下略)」と被害の恐ろしさ
を記録している。余震は続き、折悪しく凶作の年で米価
も騰り住民の苦しみ甚だしいものであった。
 長明寺記録にも「十二日より昼夜とも折々地震ニテ、
今十二月二日ニモ相ナリ候へ共、今以テ折々コレアリ、
マコトニ往昔ヨリ例コレナキ大乱、其上今年は悪作ゆえ
米[値段|ねだん]も秋頃より五斗ニテ金弐分より弐分一、二百文位
の直段ゆえ[人機|にんき]も[穏|おだや]かならず、甚だ大困窮の上大乱ゆえ
世上一同ツマリ候」とある。
(地震のあらまし)
 三条地震の被害は予想以上に大きく、信濃川沿いに広
範囲にわたった。
 出雲崎代官所への書き上げの十一月二十三日付の報告
書の一部に次のようにある「此度の大地震は[此|ここ]よりゆれ
始め、先ず新潟辺から南中ノ口川、東は信濃川両岸三条
在々見附、今町、与板、脇野町、長岡から山へ向かって
栃尾谷辺に及んだ。古蔵・小屋・家屋・戸障子等破潰し
たことは、[下|しも]は蒲原の[乙|きのと]村から海岸に沿うて米山辺迄、
東は米沢、会津を境界として御都(意味不明)辺迄凡そ[竪|たて]
五拾里余、横三拾里余その上新潟白山前の御蔵所あたり
は大地が破れて水吹きあげ(中略)又、川々の堤通りは
所々川中へ揺れこみ水底になったような場所があり反対
に川筋が浅瀬になって渡船が差支えるようになった。与
板近くから加茂辺までは所々多く平地が破れて水や青砂
が吹きあげ、埋れ木や、木材など吹だした地所もあった
…(下略)」とある。
 地震前の十月五日にはかつてない大暴風で屋根石を吹
きとばし大木を折るなどし、越後ノ國には似合わぬ暖気
で四方の山の桜、つつじ・椿・たんぽぽなどが咲きだし、
乱満として春の季節のようで、冬至がすぎたというに雪
は全く降らない、全く天候不順の年であった。
(地震から火事へ)
 地震による家屋の倒壊、続いて火災は今も昔も変わり
がない。殊に消防施設の不備の時代で、点々とおきた火
災は忽ちひろがっていく。「尤も十二日は市日なれば朝起
きいで[竈釜|へっついがま]に鍋をしかけ、火を焼きつけの処に地震故、
其儘にて逃げきりしかば、煮売店より火を余し、五ノ町
に三ケ所餘る。また四ノ丁より壱ケ所、三ノ町より壱ケ
所、大町より弐ケ所、裏舘町より弐ケ所都合拾三ケ所よ
り、一同に焼け上り、町中の火事故か、一分の身仕□ひ
して、誰之有る手伝ひに参る人壱人もなし。殊にまた近
辺の在々も地震の大変に三条に親あり子を遣し置き候て
も三条の火事には目もつけず一分の□ひを失ひ放心の[類|たぐ]
ひに相見ひ中々の手伝ひの志さらになし」とある。市日
の煮売店をはじめ十三ケ所からの出火(三条町だけの分。
一之木戸は不明)親戚があっても村々から手伝いに駈付
ける者がなかったわけである。東本願寺掛所(通称御坊
様)の本堂、弐拾三間四面の大伽藍をはじめ食堂(拾三間
四面)庫裡・台所など倒潰した処へ裏舘よりの熱火の飛火
で全焼。全町[灰燼|かいじん]に帰した。
 火事といえばこの年四月二十二日の夜から二十三日の
四ツ時(寅の刻暁)まで弐千四百軒の大火があった。(二、三ノ
町だけという説もある)二ノ丁、三の町は金持ちが多く、
たちまち復興七月七日前まで普請が完成し、七日市には
賑々しく開店繁昌した折柄―地震・火事という重ねての
不幸であった。
 三条市史研究第三号所載の若槻武雄氏の研究による
と、地震発生の十一月十二日だけで人体に感じた余震が
四十回余、翌十三日には十八~九回さらに群発的の地震
が七十余日間も続いたという。地震―火事―余震―更に
季節的にも冬に入っている。皆潰、半潰焼けだされ、食
に飢え、寒さにふるえた住民の苦難は言語に絶えたもの
であろう。
震災書上帳抄
1 出雲崎代官所
(前略)
一、長岡潰家弐百八軒 即死拾壱人、馬三匹死。御城
は無難御手宛は潰家壱軒ニ付御米壱俵づつ
一、同所東中野組 帯織組村々並に大□川筋見付辺迄
在々残らず潰れる
一、見附三ケ二潰れ三ケ一立居候えども四百軒程焼失
死人数多同町ニテ大家之有リ家土蔵共皆潰、米蔵一
ツ町方へ手宛ス
一、今町皆潰[上下|かみしも]の入口少々残り死人知らず
一、法丈村(注、傍所村)六拾軒の処五拾六軒潰れ、即
死拾四人怪我人知れず
(中略)
一、中之島家四百軒ばかりの処五拾軒ほど立居、東大
竹与忠太無難、南星野儀兵衛、大竹与文次無難与志
太より借家八百軒へ十二日より今以て炊出し手宛ス
一、大面町皆潰、死人数知れず
一、須頃村半潰
一、道金村皆潰
一、八王子村半潰、あまつさえ庄屋父子娘共即死妹は
片肢より切離存命
一、村松城下無難御領分潰村々の壱人ニ付御手宛米三
斗づつ下さる
一、燕町八分通潰れ、死人弐百人余、玉木七兵衛も潰
候上両親共即死
一、吉田町半潰、栃尾俣温泉場山崩れニて人数千八百
人程即死
 (中略)
一、地蔵堂町端拾弐間潰 地蔵堂より三条迄皆潰
三条迄在々(注、村の意味)左の通り
一、野中才村四軒潰
一、下曾根四軒潰
一、川崎三軒潰
一、熊野森拾八軒潰
一、横田三拾五軒潰子供弐人即死
一、柳山九分通潰
一、小池九分通潰
一、杉名杉柳両村皆潰(以上西蒲原郡)
一、長嶺八分通潰
一、妙法寺(注、如法寺)八分通
一、中条 四軒潰
一、下沼 九分通潰
一、大沼 九分通潰
一、小古瀬七ケ村共皆潰(注、小古瀬・同新田・中興野・
千把野・善久寺渡り前 中曾根)
一、貝喰皆潰即死七人
一、袋村 皆潰
一、東西鱈田 九分通潰
一、五明私領皆潰
一、曲渕 皆潰
一、今井村今井新田共皆潰


一、一之木戸御役場始め町方皆潰候上焼失町場死亡怪
我人数知れず
(以下略)
なお文中三条町・裏舘について別記すると次のようで
(第1表) 三条地震の被害(吉田東伍―大日本地名辞書)
領分
潰家
焼失
死失
高崎藩(一之木戸陣屋)
一、一八〇軒
一三六軒
一四四人
長岡藩
三、六〇〇〃

四四二
村松藩
一、〇三〇〃
一五三
二二八
沢海藩
一四〇〃
与板藩
五九〇〃
七六
館村領分井栗班
一三〇余
出雲崎陣屋支配
一、〇〇〇
一〇二
池之端藩
九〇余

新発田藩
一、七七〇
一一五
焼死 一八死失二〇七
村上藩
一、三〇〇
七五七
二六三
桑名藩(柏崎陣屋)
二、〇〇〇
一二〇

一二、八三〇
一、一六一
一、六〇七
あるが即死人はその場で火葬にしたという。
一、三条町は随一の大変にて東御坊所(東本願寺掛所―
現東別院)始め御役場は申すに及ばず、町方残らず潰
れ、二ノ丁の外残らず焼失、二ノ丁の内漸く拾弐軒
無難、即死八百人余、怪我人数知れず。右即死は其
場にて直様火葬、同日市日にて在々所々より人々多
分即死。御手宛は死人壱人に付金弐歩潰家壱軒に付
米壱俵つつ、且又同町で住居することが出来ず離散
致し候者共か多分にあり、屋敷を取上げられ、家作
致し候者へは桁より上道具御手宛と仰せ渡し候。
尤も本城寺村方は皆潰、本城寺は無難、三条より
加茂迄在々残らず皆潰
一、裏舘皆潰候上焼失死亡怪我人数知れず
2 三条町御書上調
一、棟数千七百四拾弐軒
死失人百七拾壱人 但当町人別の者計
外ニ御他領より罷出死失人三拾四人程
怪我人三百人余
宿馬 壱疋 弐疋
信濃川筋石刎八ケ ○
但此訳
表家 三百四拾四軒○ 焼失
小路通り四百拾九軒 同
裏借屋
土 蔵 七拾八ケ所○ 同
板蔵百九軒○ 同
雑 蔵 八拾七ケ所○ 同

表 家 五拾九軒 ○ 潰家
裏借屋四百弐拾軒 三百八拾軒 潰家
土蔵九ケ所 ○ 同
板蔵 弐拾弐ケ所 ○ 同
雑蔵 三ケ所 ○ 同

表 家 六拾壱軒 ○ 大破
裏借屋 弐拾九軒 ○ 同
土 蔵 弐拾四(ママ)ケ所百四拾ケ所 同
板蔵拾弐ケ所○ 同
雑蔵八ケ所 ○ 同

寺社五拾七棟
但焼失潰 弐拾五軒

右之通御書上ニ相成申候
但朱は三条大橋より知らされ候也
注1 ○印は朱記以下同じ
2 被害数 内訳合計不一致のものあり
3 食糧と土地
組村の書上帳には更に食糧事情と土地の荒廃などにつ
いて述べてある。この年は不幸凶慌の年であり、この
地震は住民の苦痛を増したことはいうまでもない。焼
失した三条・見附・今町等は二重、三重の苦しみがあ
ったわけであるが、農村にしても夫食農具を失った家
が多い。「私共の村々、此度の地震によって、住家皆潰
し、夫食農具を失い、殊に当年は越後国一統凶作のた
め、百姓夫食の雑穀が払底して村々険難に逢い、雪中
路頭に迷い、まだ小屋も取り繕いかね、飢寒難悲歎罷
在り…」(与板町関守)の困窮は何処の村にもあった。
「当組苅谷田川・信濃川前堤一円破裂、或は揺れ動き
陥ち等して平地では居屋敷・地形(ちぎょう)のうち多
く破裂…(中略)殊に今井新田川原は破損強く中之島・
中西村・高山新田・下関新田・丸山興野堤通の中、平
地より窪み候処之有り候処よりは青砂水を吹出しそれ
がため地窪の処にては暫時の内多分に水堪えに相成り
床上り等も之有り…(下略)」(中之島組書上帳)とある。
「村々堤外畑方の内巾二、三尺位より六七尺又は弐三
間程にて長さ二、三十間或は五拾間百間甚た長きは三
四百間位の通り平地裂け深さ三四尺より八九尺ばかり
沈み込み候場所数十ケ所之有り[耕|たがやし]の差支えに相成り候
に付、銘々人夫を掛け平均に切り申し候」(鵜之森組書
上帳より)とあり、具体的な例をあげて被害状況の報告
がされている(鵜之森組)川が浅瀬になって渡し舟に差
支えるとか、用排水路が隆起して水の流れが停滞した
とか、田畑家屋敷など土地の被害が甚大となった。
(注、以下は「新収」第四巻別巻四〇八頁以降に掲載ず
み)
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 別巻
ページ 136
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 長野
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