[未校訂]二、松木まし女と『なゐふりの記』
文政十一年(一八二八)十一月に越後地方に起きた大地
震の見聞録を書いたまし女については、新潟のあちこち
の図書館や郷土研究家やその他の方々にも尋ねたり、あ
れこれ調査をしてみたが、今のところ『舟江遺芳録(10)』に
記載されている以上のことは分からない。
『舟江遣芳録』によればまし女は寛政十二年(一八〇〇)
に越後新潟の代々貢米宿(蔵宿)を業とする家に生まれ
た。琴や折紙の技芸にすぐれ、また人物や花鳥画に巧み
で、最も歌道に堪能であり、その性格は温和柔順で上品
であり、しとやかな徳を備えているとの評判であった。
和歌ははじめ郷土の歌人玉木[勝良|かつら]について学んだ。まし
女は十八歳で婿を迎えたが、数年で死別した。その後、
まし女は一層歌の道に励み、京都へ上って千種[有功|ありこと]に師
事した。有功は正三位まで進んだ人で、一条忠良に学び、
また飛鳥井家に入門し、有栖川[職仁|よりひと]親王らにも学んだ堂
上派歌人であったが、同時に香川景樹や加藤千蔭ら地下
歌人とも交わった。毎月二三回開かれた千種邸の歌会に
は、貴賤男女を問わず熱心な人々が集まって共に歌の道
を極めた。有功は千々廼舎と号し越後の門人が多かった。
まし女は有功との縁で宮中に仕えることになったと思
われるが、後に官を辞して諸国を行脚し、各地の文人墨
客を尋ねて歌道に精進した。淡路島に渡り、国司の稲田
家に長く滞在した。当時、淡路島は阿波の峰須賀家の支
配下にあり、稲田家は洲本に家老として派遣されていた。
稲田家は藩主の峰須賀家とはもともと深い関係にあり、
阿波と淡路に一万四千五百石という大名なみの知行地を
宛てがわれ、洲本城代や淡路仕置職にも任ぜられ、公家
との縁組も行われ、豊かな経済力を持っていた。
まし女が各地の知名の士の作品を蒐めた書画集五巻、
短冊集二巻があったというが、今は不明であるのが惜し
まれる。また、長い旅の記録を『道の記』七巻に綴った
が、これも不明であるが、何とか捜し出したいと調査を
進めている。
まし女はこの『道の記』を世話になった淡路島の稲田
家十三代当主九兵衛藝植に贈った。稲田家の人々は『道
の記』を感激して熟読し、家宰青山與右衛門に代筆させ
て丁重な返書をまし女に送った。返書に添えて藝植が自
ら焼いた陶物と、藝植とその母匡子の短冊四片を送った。
四片の短冊は次のものである。
越後の人にをくるとて [藝植|すけたね]
月雪の色より外に思ひしる
この柴草のみとりしけりて
えにしあれは又や語らむ雁がねの
翼もとほく雲にへたてゝ
越後なる人のしるし 文をみるに限りなく
おもしろう思ふあまり 匡子
たつねつゝ夜のやとりも隔てなき
道の友垣しるへにはして
なみならぬ心をとめし筆の跡に
越路の浦のみるめをそかる
返書や歌から、まし女がいかに稲田家の人々に慕われ
ていたかが想像できる。まし女は淡路島に滞在中、おそ
らく稲田家の人々と多くの歌を取り交わしたのであろう
が、それらは『道の記』とともに所在が不明である。
新潟に帰ったまし女は、歌の師玉木勝良や同門の田辺
[依手子|そでこ]らと信濃川に船を浮かべて歌会などを催した。そ
の時の様子は勝良が書いた『月のほふね』に詳しく、そ
れをまし女が筆写したものが残っている。
遠くからまし女の門を敲く人もいた。秩父の学者日尾
[荊山|けいざん]とその妻邦子(11)夫妻が、諸国漫遊の途上新潟に立ち寄
った折、まし女の所を訪れた。丁度、田辺依手子も来て
おり、四人は初対面にもかかわらず、十年の知己のよう
に睦び語らい合った。その折、邦子は旅日記一巻をとリ
出して、まし女にその序文を書いて欲しいと頼んだ。ま
し女は「千々の言の葉かき流し、浅からぬ心さしの雅ひ
かなるは、久方の雲の上人にもをさゝ劣らじ」と誉め讃
え、喜んで序文を書いて渡した。
嘉永の初め頃、松浦久蔵という者が母への孝行により
表彰をうけた際、まし女は長歌と反歌を贈った。
反歌
おろかなる我そやさしきたらち女に
けうをつくせる君を見るにも
まし女の歌を二三首あげてみよう。
かけひろき松が根まくら涼しきに
うたゝねさます蟬の諸聲
名所時雨
あま雲のたつたを越て三輪の里
いそけとしくれふるの中道
(12)篝火によりくるうをのかす見らて
月すむよはのほふねたのしも
(13) まし女は嘉永四年(一八五一)九月一九日五十二歳で病
死した。新潟市西堀通りの正福寺に葬られたとあるが、
墓は見当たらない。
まし女の『道の記』七巻が見い出せない現在のところ、
糸魚川市歴史民俗資料館に保存されているまし女自筆の
『なゐふりの記』は貴重なものである。
文政十一年十一月十二日(太陽暦一八二八年十二月十
八日)越後三条・見附地方に起きた大地震は、マグニチュ
ード6・9に相当するもので、家屋の倒壊数知れず、圧
死・焼死が一万人以上を数えたという。
良寛もこの地震災害にひどく心を痛めた。良寛は寒気
増す十二月半ば、柏崎から三条へ足を運び、自分の目で
被害の様子を確かめ、その感じるところを数篇の詩や歌
に述べている。
三条の市にいでて
ながらへむことや思ひしかくばかり
かわりはてぬる世とは知らずて
かにかくに止まらぬものは涙なり
人の見る目も忍ぶばかりに
(14) また、『地震後之詩』と題した漢詩の中で、太平に弛ん
だ人心の退廃を嘆き「我独り鬱陶 阿誰にか訴へん」と
述べ、人々の自省を促している。
こうした折りの惨事を綴ったまし女の『なゐふりの記』
を繙いてみよう。
『岩波古語辞典』によれば「なゐ」とは地震のことで
ある。ナは土地、ヰは居。本来、地盤の意。「なゐ震り」
で地震又は地震が起る、とある。
まし女のこの見聞録は、五丁半程の短いもので、一丁
に一行二十字前後で二十二行書かれている。
文政十一子の霜月、中の二日 おき出れは、空の色
うす曇にしておほゝし、辰の時はかり、にはかに
なゐふり来、柴かき、築地は、いふもさら也、妻戸
さうしも、はつゝるはかり、ひゝきかよへは
ひとつところに集りて、うつふし臥たり、漸々しつ
まり、かしら、もたけ見れは、ぬりこめの壁、みな
より落し、板庇の石飛びたり、朝飯もおほかたに
して、おとろきさわく、象潟のむかし語りあひ
つゝ、その日はくれぬ
新潟ではさほどの被害もなかったのか、文化二年(一八〇
五)に起きた出羽大地震の象潟の被害の事など語り合っ
て、その日は暮れた。
ところが長岡から命からがら帰って来た人の話を聞
き、貢米宿を営む職業柄、松木家では、すぐに人を走ら
せて様子を探らせた。使いの者は、幾日も経ってやっと
帰って来た。様子を尋ねたところ
まつ行先は、かなたこなた、かけ渡したる
橋は落ぬ、ありしなからの、わたし舟、もる人もあ
らねは、ゆくりなく、かゆきかくゆき、みちをよき
て日は山の端に、入ても、宿とせんかたもなく、さゝ
やかなる、辻堂、あやしき、馬草の小屋に、腰うち
かかめ、夜をあかし、あるは雨具なからに、笠もぬ
きあへす、芝生に休らひ、時うつりても、かれ飯に
もありつかす、からき処を生てかへりしか、村々の
長人は、しゝたるもあり、あやまつるもあり
と、宿もなく食べる物もない惨事を告げた。中でも途中
の三条の被害は言葉には言い表し難いひどいものであっ
た。
ことさら、三条の里は、
みるも聞くも、袖をひちぬ、家なみ、つふるゝ音は
百千のいかつち、一度に落ること、天地にひひき
あひつ、中にも本願寺は、いかめしう造り立しか
柱なけしに、いたるまて、一かゝひ余りなるを、み
なねちけ、くたけてかやふきのもえあかりしは、花
ふゝきのこと、うちゝりたり
町々の家には、うつはりに、腰ひさ手足をはさめ、
けたに押れて、のみと、つまり、あるはちをはき死
すもあり、また家の下になりて、助給へと、よひ
のゝしれと、たれも〳〵しかなれは、すへなし、さ
てそこかしこより火もえあかり、大空もこかすはか
り、みちたるほのほの、中より八さけひの音、とは
かり、やまさりけり、修羅大しやうねつも、是には
よもまさらし、
地震の中心地三条の町並みは、ことごとく潰され、あち
こちから出火し、死人が多く出て極熱地獄の有様であっ
た。
町並みだけでなく、郊外の自然も無残に破壊されてし
まった。
はやしに入は、大木根なから、たふれ、野
はらに出れは、つちさけて、水砂ひちり子、空高く
吹きあけ、川辺におり立は、きしの小舟は、つなて
をきり、見る〳〵くつれて、よと瀬にたゝよふ、川
の面は水の色もなく、さらに泥の海なして、上にし
もになかれも、定まらす、
しかも、その日より少しの間も中断する事なく、雨が降
り注ぎ、大路小路は搔き田の様になってしまった。
親に死別した者、妻を亡くした者、あるいは子をなく
した者たちが、闇にくれて地に伏し転がり、その数は計
り知れない。三つ四つ離れた里から食物が届けられると、
鷹より飢えた人々は群れ来てすがりつく。ついには、背
負った櫃まで奪って行く者さえある。
そこたの人、獣、かはやの、焼し、あしき香は、天
にもみちて堪えたし、うゑたる犬は、かはねを堀、
からすとゝもに、ほねはらわたを、ひたくらふ、ち
かく、えよれは、生たる身にも、くひつきぬへし、
ぬす人も多たになりぬ
また、三条と長岡のほぼ中間にある南蒲原郡中之島村
の被害も大きかった。
中野嶋の、里長、星野某は、国司、立より給ふ、家
なれは、此あたりしめて、二なう、めてたく、むね
〳〵しう造りたるを、あやなく、うちつふしたるも、
あたたし、その辺のおなし長人、大竹某の門は、柱
根に礎付て、上になり、棟はしもになりて、もとの
所に、あなれは、こはそも、ゆすりしにはあらて、
土よりいくひろとなうさしあけゝん、とぞいふかる、
中之島村の東の庄屋星野義兵衛の家は、国司も立寄る所
なので、近辺には見られない立派な建物であったが、無
残にも打ち潰れひどい状態であり、一方、西の庄屋大竹
与三郎の家の基礎のしっかりした大きな門も、そのまま
の形で堀り上げられ上下が逆さまになったというのであ
る。これはよほど話題になる程のおもしろい現象であっ
たのか、庄屋与三郎、義兵衛より郡奉行へ『地震変事ニ
付品々書上(15)帳』の中にも書き加えられてある。
山里は畑も田も岡になり、見慣れない山や池ができて
しまい、人々は家も財も焼け失せ、あるいは奪われ、ま
し女は人々を思って心を痛めた。
たとき、いやしき、おなしさまにて、みるの、
布かたきぬを身にまとひ、むしろこもをかふりても
はけしき風はきえとほる、さらぬたに、ことしは
れいより、としなけれは、にこりし酒たに、一つき
もなく、いやましの寒さ、しのきかてなるに、雪
はいみしう、つもりて、しのやの柱、をれなとす、
土は今さら、をさまらて、としもくれけり、かゝる
まかわさは、人の国には、ありときけとも、此日の
もとには、いかなる神のみさとしならむと、あさま
しく浅間の山の焼し時、人こゝた、そとねし、その
かみを、おもひ出れは、是もまた、なかきよに、か
たりつくらむと、そのあらましを、みしかき草もて
書おく
自然を破壌し、田畑を壊し、焼き払い、家屋や神社を潰
し、人々の命を奪い、富も衣食住も、あらゆるものを無
くしてしまった地震のあまりの恐ろしさに、まし女には
いかなる神のお諭かと驚き呆れるばかりであった。
まし女の『なゐふりの記』は明らかに一紅の『文月淺
間記』を意識して書かれている。文のおこし、運び、結
びすべて『文月淺間記』に習っている。災害当日の様子、
被害地から帰って来た人の話、あちこちの被害地の様子
を幾つか語り、最後に感想を述べて締めくくる。越後地
震の発生から四十五年前に書かれ、十三年前に版行され
た『文月淺間記』はかなり評判になった作品であったの
で、まし女も当然読んだであろう。一紅が六十一歳のと
きに書いた『文月淺間記』に比べれば、『なゐふりの記』
は三分の一程の分量しかなく、内容的にはやゝ印象が薄
いが、二十九歳の若さで書いたとは思えない、まし女の
散文家として力を示す作品である。
(10)桜井市作『舟江遺芳録』(大正三年)
(11)日尾邦子 十四歳で庄内の酒井侯の奥に仕える。書や
和歌を秩父の学者日尾[荊山|けいざん]に学び、二十七歳の時、荊山の
後妻となる。邦子は温良貞淑、内助の功を発揮し、夫をし
て名をなさしめた。また、荊山の一女直子の教育に努め
た。
荊山の没後、邦子は直子を助けて竹陰女塾を開き、多く
の華族、貴紳らの息女の教育をした。明治十八年(一八八
五)十月世を去った。歌集に「竹の下集」がある。(『女流
著作解題』による。)
(12)以上の歌は前掲「『舟江遺芳録』にある。
(13)玉木勝艮『月のほふね』にある。(まし女の手になる写
本が糸魚川市歴史民俗資料館にある。)
(14)東京大学地震研究所編『新収日本地震史料』第四巻
別巻五七〇~五七六頁
(15)前書 三九六頁