[未校訂]1 宝永の地震津波
宝永四年(一七〇七)一〇月四日正午ごろ、東海沖から
南海沖・四国沖に達する広大な海域に、史上最大級の地
震がおこり、つづいて伊豆下田より西方、九州にかけて
の沿岸が大津波におそわれた。
地震は当地方の家・土蔵・石垣・道路を揺りくずした。
尾鷲念仏寺過去帳に、
宝永四丁亥十月四日晴天、化日に異り例ならず、温な
る日の午の中刻、俄に震動大地を動し、古き家はゆり
つぶすべくも見え、外へ戸板又は畳やうの物取出し、
地震ゆりさげん事を恐れて、其上に並み居る皆々肝を
ひやし、只神佛の御力を祈る計り也(後略)
と、地震におびえた状景を記している。地震から半時(一
時間)あとに津波が発生した。「尾鷲見聞闕疑集」に「海
には潮おびただしく湧き出で」と、津波発生の状況を誌
し、また、「引本浦・矢口浦・島勝浦に津波浸入」と記し
ている。
引本吉祥院境内伊藤善右衛門宝筐印塔
津波の高さは各浦によって多少の相違があり、一丈五
尺から一丈八尺(約五~六㍍)の大型津波であった。三波
におよぶ津波は一瞬のうちに集落の人家を残らず流し
た。尾鷲では大半が流れて一千余人が流死し、長島浦で
は在中残らず流れ五百余人が流死した。
引本浦の在中は高さ六尺の津波に浸水し、吉祥院過去
帳一〇月四日の項に樹庭宗栢居士(奥村文兵衛父)ら一〇
名の流死者が記され、また津波に受けた傷がもとで五日
後に死亡した初代伊藤善右衛門の供養の宝筐印塔が吉祥
院に建立されている。
矢口浦では一〇軒ほど流失し、白浦は人家ほとんど流
失、わずか二〇~三〇軒が残ったのみであった。「島勝沿
革史」に、
宝永四亥十月四日午刻大地震、其日青天村雲なし、地
震一時餘、石垣小屋ゆり崩す、地裂る、半時程過ぎて
高浪入ること川の如く、前代未聞なり、西の河内は山
端まで、大里山の腰二丈程上る、宮流る、寺は檀まで
汐つく、玉戸は勝右衛門畑の下まで浪乗る、世古の郷
は山より廿間下まで波乗る、家数七十九軒の内十六軒
柱計り残る、残家は古里計り、流死人二人、御高札別
條なし
とあり、一時間後におし寄せた津波により、島勝浦は古
里の二〇~三〇軒のみを残して、ほとんど流失し、流失
した家屋のうち一六軒だけが、柱を残していたという。
沿革史には流死人二人とあるが、安楽寺過去帳には六人
の流死名が記され、そのなかに関下清兵衛の伯母もふく
まれ、安楽寺前庭に供養の五輪塔が建立されている。
なお、島勝浦では捕鯨道具一式を流失し、其後しばら
く捕鯨を不能にさせた。
藩は目付・代官に被害状況を調査させ、被災者に米・
味噌・衣類・農具などを和歌山より回送し、とくに在庫
の年貢米を放出して各地で[施粥|せがゆ]させた。また藩は年貢を
赦免し、山や海の事業資金の元手金を貸与するなど救済
につとめた。宝永七年(一七一〇)幕府は巡見使を派遣し、
被災の実情を把握したが、しかし、災害の復旧は容易で
宝永津浪碑(安楽寺)
なく、五か年すぎても小屋がけの家が残っていた。