[未校訂]宝永の大地震
『南海大地震災誌』は、宝永四年(一七〇七)
十月四日の午前十時ごろに大地震が発生した
としているが、熊野ではこの模様を詳しく記録された史
料はない。
『熊野年代記』に、「十月四日未ノ刻(午後二時ごろ)大
地震町家ヲ崩ス、人死有リ、浦々津浪入リ、悉ク屋流サ
ル。浜ノ宮観音堂石ツ(礎)エヲ離ル、補陀洛寺海際へ流ル、
新宮町中ノ人ハ神前芝ニ群レ居ル、震フコト七日」とあ
る。
『南海大地震災誌』は巳の上刻としているのに対し、
『熊野年代記』は未の刻としているので発生の時刻に差
があるが、当時の時刻は前後二時間の幅があるので、同
時に発生した地震であろう。
震源地について『新鹿の津波』には北緯三三・二度、
東経一三五・九度とあるから、潮岬の南約一〇〇キロの
沖となる。
また、『熊野年代記』によると、「御城矢倉大分([疼|いたむ])、
新宮町家四百六軒、死人二十三人、残り家大破、怪我人
多クコレアリ。右ハ新宮藩士神谷伝太夫ノ旧記ノ一節ナ
リ。」
このときの地震は震源地から一九〇キロメートルも離
れた和歌山でも大きな被害を受けているから、震源地に
近い新宮とその近辺も大きな影響を受けたものと思われ
る。(後略)