Logo地震史料集テキストデータベース

西暦、綱文、書名から同じものの一覧にリンクします。

前IDの記事 次IDの記事

項目 内容
ID J2601610
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1894/10/22
和暦 明治二十七年十月二十二日
綱文 明治二十七年十月二十二日(一八九四)〔庄内地方〕
書名 〔遊佐町史資料 (第八号)―遊佐郷藩政資料並災害豊作凶作資料―〕遊佐町史編さん委員会S58・7・1 遊佐町長発行
本文
[未校訂]8
鶴迺舎主人述
東西田川飽海三郡 甲午大地震記
(抄)
聴雨堂蔵
(上野沢 石垣善九郎氏所蔵)
(明治二十七年)
十月廿二日 午后五時卅七分の大激震五七分間、続て激
震、引続き三回激震あり、
午后十一時四十分迄震動二十四回初めより二十九回
なり、午后十二時強震、午前〇時五十五分強震、同
一時五分軽震、午前一時廿五分軽震、同三時二十分
軽震、同四時卅五分強震、都合三十五回、
十月廿三日 午前七時頃強震、正午十二時迄強、軽二回、
弱震一回、都合八回、
十月廿四日 午前五時迄六回弱、午前五時より午后六時
迄六回弱、都合十二回
此頃浜邊地方では津浪が来るかと云って大騒ぎをなし、
又内地では大地震が来る抔、唱へて人心愈々洶々たりと
云ふべき程で御坐いました。
十月廿五日 午前五時より午後六時迄五回弱、夜二回弱、
都合七回、
十月廿六日 午前八時四十五分まで三回弱、同九時四十
分強一回、午後〇時五十分迄二回弱、夜二回弱都合
八回
十月廿七日 午前には二回弱、午後十時二十分弱、午前
二時頃弱、都合四回
十月廿八日 午前午後二回弱、午後十一時十分強四、五
分位、午前〇時七分強二分間位、午前三時頃弱都合
五回
十月廿九日 午前三時二十分弱、夜二回弱、都合三回
十月三十日 午前午後二回弱、夜一回弱、都合三回
十月卅一日 午後四時迄軽震二回、午前十時三十分強都
合三回
十一月一日 午前四時頃弱、都合一回
十一月二日 午前四時三十分強、午後一時四十分大強二、
三分間、午後四時二十分大強三、四分間、夜二回弱、
都合五回
十一月三日 午前四時四十分頃強、夜に至りて午前一時
二十分弱、都合二回
十一月四日 弱震一回、都合一回
十一月五日 此夜三回の弱震あり、都合三回
十一月六日 午後二時十五分弱震、都合一回
十一月七日 午前四時四十分頃軽、午後七時八分弱、夜
二回の弱、都合四回
天も亦無残なる事ばかし、酒田地方雨甚しく僅に出来た
る仮小舎は内に傘をさして居ねばならぬ憫れ至極の体な
る上に雷さへ轟き渡って天地も裂けんかと思はるる計
り、
十一月八日 午前四時卅分弱、午後八時強、夜二回弱、
都合四回
十一月九日 一回弱、都合一回
十一月十日 強一回、弱一回、都合二回
十一月十一日 一回軽、都合一回
十一月十三日 夜一回弱、都合一回
十一月十五日 午前七時十五分強、都合一回
此日迄二十五日間震動の度数は都合百十五回です。
地震の当日
即ち明治二十七年十月二十二日朝の内は晴れて居りまし
たが、午後よりは段々曇り出して天気も滅切りと寒くな
った様に思ひました。そうして四時頃よりは雨も降り出
して来まして外に何にも変った事は御坐いませんでした
が、五時三十分と覚しき頃ごう〳〵と遠ふ雷がとゞろく
様な音がするぞと思ふまに、もっくり下たより三、四尺
も上げられたと思ふと、どんと落されて大概の家は是れ
と共に潰されて仕舞ひました。それだから潰れた家を見
ますとみんなびしゃっと其場所に押し潰された様に左右
に揺れて潰れたものなどは一向に見当りません。中には
柱が四、五尺も土の中にさゝり込んで潰れて居るのも御
座いますし、家の半分が礎の土が四、五尺も上ツた處も
御座います、して丁度火燈し頃で御座いますれば、潰れ
ると同時に火事が出来て僅か十分間も経たぬ内に十五、
六ケ處の火の手で御座いました。物凄いったら申さう様
の無い程です。老幼男女の泣き叫ぶ音耳に染みつくばか
り、足をはさまれながら焼け死んだものもござんせうし、
そのうへ水が噴き出したものですから、黒森、坂野邊、
船場町邊では水の為めに死んだものもござんせうし、或
る人の如きは[亀裂|ひび]の中にはまり込んでワイワイ叫んで居
るものも有ったと云ひ、其混乱惨状実に御話し申すに術
は御座いません、宅より逃げ出そうと思へば戸が明かず
して[狼狽|うろた]へ廻るものもあれば、戸の外れた勢ひに投げ出
されたものも御座います。児は親を呼び、妻は夫に縋り
て四(七)転八倒漸くに免れ出しかと思へば水にせめられ火に
苦しめられ、殊に難儀に遇ひましたは酒田の船場町、高
野浜、及び黒森、新堀等で御座います。押切、広野、松
嶺、飛鳥、砂越の所々も家は大半潰れ、又火事の出た所
も御座いますけれど、幸いに火、水の責めが大きくなか
ったものですから其損害も亦大きくは御座りませんでし
た。
震害の統計
飽海郡
町村名 全戸数 全焼戸 全潰戸 半潰戸 破壊戸 死人 負傷者
酒田 三、四六〇 一、七四七 二四〇 九三 三二九 一六二 二二三
松嶺 四三〇 一七二 三九四 二一七 四一 一五 一三三
上郷 三九二 〇 三八 六五 二〇一 三 三
内郷 三六二 一七 一六七 一二一 四〇五 四七 四五
田澤 四九七 〇 三 一〇 四八〇 〇 〇
南平田 五四二 二四 四七〇 四〇七 四四三 八六 六〇
東平田 四二二 八 五四 五一 四一四 一〇 一七
北平田 三二九 七 五〇 一九 一七五 二〇 一一
中平田 四三一 一二 九八 三四 一〇四 二九 九
鵜渡川原 三六四 〇 一八 一〇 一二 七 一三
西平田 二〇五 五 六〇 二六 二〇三 二二 七
上田 三〇五 〇 三九 一五 三一五 三 三
本楯 四六三 一 三二 一六 一七八 六 二〇
一條 二四六 〇 六八 六〇 二六 一七 一
観音寺 三七六 〇 四一 五八 四八八 四 三九
大澤 二二〇 〇 四 三六 二八五 一 一
日向 三〇三 〇 一〇 三〇 三九五 二 五
西荒瀬 五八九 〇 一七 四六 一四六 四 一一
南遊佐 三一〇 〇 一七 一〇 一七 一 一一
稲田 一八五 〇 四 一〇 二六 〇 〇
西遊佐 三九〇 一 五九 三九 九二 一一 一二
遊佐 四六一 一 五四 三三 一七四 九 九
蕨岡 四二〇 三 七四 二六 一二六 一六 六
川行 一七四 〇 一〇 九 二一 二 六
高瀬 三五二 三 八三 六九 一二三 四 九
吹浦 三一四 五 五一 七一 二四九 一 七
合計 三、五四二 二、〇〇六 二、一五五 一、五八一 五、五五八 四八二 六六一
9 震災記念
震災記念
一枚、タテ150㎝
ヨコ 80㎝
(川俣正夫氏所蔵)
于時明治二十七年十月廿二日、細雨西南の風を帯び朦々
天暗く、午後六時卅分頃俄然迅雷霹靂海岳一時に裂けん
とするの響あるや、これ振古未曽有の大震にして吾荘内
三郡中酒田港最強く、倒潰財産数千万の焼盡ニ其惨況実
に酸鼻に堪えざるなり、然り而して吾が蕨岡村に在りて
は、全戸数四百廿七の内、家屋全焼二戸、全潰四十九戸、
半潰十七戸、破壊百十八戸、死亡男女十六人、牛馬十一
頭にして、行政機関たる本村役場も亦不幸にして全潰の
内に在り、幸当主人時田平治郎氏の家屋本年春来の新築
なれば、能く此激震に耐え、超然独り立たり、これ主人
の建物工事に深く注意せらるゝ処の著しきを表せるもの
なり、故に村会の決議を得、行政機関の室を主人家屋に
充てり、夫如斯大震の災害至る処惨状赤貧の饑餓愍然に
被聞召、畏くも吾大日本帝国 天皇 皇后両陛下より、
金四千円当県下罹災者に下し賜はり、尚其実況視察とし
て、勅使東園侍従殿を以て此地方に巡回せらる。辱くも、
主人平治郎氏の庭内に暫時休息せらる、当時代理川俣助
役、村会議員、役場吏員等の数氏相招かれ、一々御下問
被為在、鳴呼鳴呼両陛下の御仁恵深く、実に感泣の外こ
れなく、主人拝戴せる配與金、拾壱銭弐厘にして永く子
孫の為めニ謹みて之を録す 東洋大日本 羽北逸史左純
常謹撰
亡父純常謹撰上揮毫せし時田氏所蔵の掛軸破損の故
を以て、川俣文作氏より父子の縁に依り是非揮毫せ
よとの清嘱黙止難く、冷汗背を沾しつゝ拙筆を揮ひ
て其責を塞く、維時昭和弐丁卯初秋葉月下澣
男不肖後凋軒佐藤純篤謹書
10
洪水大地震記
大地震記 (友野誠一氏所蔵)
抑此地震ト云者ハ、実ニ恐ロシイワケデ、年後ニ話ヲノ
コスノデ有ル、此地震ハ午後六時デ有リマシタ、其日、
友野喜八ノ田地字神(仁)田ヘ田ヲウチ出テ、喜八ノ家ニテア
ガリ酒ヲノンデイタノデ有リマシタ、トコロデ此地震ノ
ヨ(揺)リ方、ドヽヽヽヽヽドドントイウ音デ、雷デモ下(オ)ヅ
シヤタカ云、音ハゲシクシテ、アラヤコラヤト云ウニ、
一(ヒ)トヤ、唐紙ハバラバラタレテ散乱トナリ、
大地震話
抑此大地震之事デゴザイマス、此年月日明治廿七年九(旧暦)

廿四日之事デゴザル、時刻ハ午後六時コロデ有リマシタ、
其日雨天ニテ実ニサムク有リマシタ、我村方ニテツブレ
タル家ハ五軒、友野重蔵、友野七左(衛)門、青葉又十郎、友
野重太郎、友野八郎兵エ、半ツブレ家、伊藤善七、伊藤
貞治、弥五左(衛)門、阿部源十郎、友野和左(衛)門、友野弥治左(衛)門、
又四郎、死タル人我村方ニテ重兵エジジ(爺)サン、福治同家
重兵エカカ(嬶)サント二人、其バン酒田地方ナドワ、ヤケツ
ブレテ我地方マデモ、アカリクナリテ、方ドヲトナリモ
ノニタトエテ見ルナラバ、上寺大物忌神社ノ赤月ヘデモ
イタゴトク、其バンハ家ヲ出テ、我家ノコ(肥)イヅカノ上ニ、
アタリ近ジョ四五軒ノ人ラ集リテ、ヨ(ホカニ)ニ話シハナク、
タダ地震が恐シイカツタト云ノミ、其バンアトヨリ、震
ト云ウ者ハ何度ト云カギリモナク、ミシミシトヨリ、其
バンヨリ出(デ)スカラ、ヨク日朝マデ百十三度ヨツタカ(数)ヅ
ヲトメ、ヨル度ゴトニゴロゴロンゴロゴント云音ガシマ
シタ、此地震ノ後ハ、コンド地(津)ナミガクルカト云ウテ、
大イニシンパイシマシタ、其後鳥崎村ニヲイテ、其歳ツ
モリテ九十八歳ナルババガイマシタ、其ババガ云ウニモ、
此前九(文化元年)十一年サギニモ大震ヨテ、アツタガケツシテ、地
(津)ナミノウレイナキ者ダト云話スデアツタソダ、其ゴトク
地(津)ナミノウレイハ有リマセヌ、
飽海郡置テ死タル人七百人アマリ、ヲモニ酒田ワ大(多)シ、
ケガ人三百人、酒田ハ実ニヤケツブレ七分ドウリ、西田
川黒森ヘンワ、実に甚ダスグ、九分ドウリツブレテヤケ
タリ
我地方豊岡村中ヤケツブレ、三川村五郎兵エ、ヤケ死タ
ル人七人、同村源十郎アネ死テヤケ、同村大内ノ目村半
トウリツブレ
前門東土手ノソトエ出タル水、明治廿七年ノ地震カラデ
タル水ナリ、地震後十日間バカリ我家地ニ小屋ヲカケテ
スマイシタリ、
当家親ゾク金山村吉佐(衛)門ツブル、長橋小松小作ツブレ、
地震後、ツブレヤテツダイ人足当家内三十二人出タリ、
此年稲作上作ト云作ナリ(以下大風の話は省略)
蕨岡村大字豊岡
平民 友野弥惣太 是ヲ造リ
出典 日本の歴史地震史料 拾遺
ページ 387
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 山形
市区町村 遊佐【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

検索時間: 0.001秒