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項目 内容
ID J2601609
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1894/10/22
和暦 明治二十七年十月二十二日
綱文 明治二十七年十月二十二日(一八九四)〔庄内地方〕
書名 〔八幡町史 下巻〕○山形県S63・3・15 八幡町史編纂委員会発行
本文
[未校訂]三、庄内大地震
 明治二十七年(一八九四)十月二十二日(旧暦九月二十
四日)、庄内地方に未曽有の大地震が発生した。地震は、
この日午後五時三十四分に発生し、酒田市新堀附近が震
央であった。
 地震が起こったのは夕方で、日はすでに暮れ、多くの
家庭では夕食の前後であった。庄内三郡は、死者七二三
名、家屋の全潰二、七七七戸、家屋の全焼一、四八九戸
という大惨事となった。
 また、この地震は、余震が強く、長く続いた。前川の
「慈光寺文書」によると、「其夜五十度の地震ナリ、五
十日間ハ毎日毎夜五六度ヅツ、漸く三年目ニトマリタリ」
と当時の十八世宗山和尚が書き残している。また、『山
形県災異年表』には、「余震回数は大震後二十三日午前
八時半迄に一四〇回、二十三日夜半迄一二回、二十四日
に一六回、以後減少して十一月十五日迄二十六日間に合
計二三七回を算せり」と、余震が続いたことを記してい
る。
 このため、どこの家にもあった堆肥を造成するための
肥塚に避難する者が多かった。『平田町史』によれば、
そのもようを、「大地震で恐怖のあまり、皆肥塚に上が
り一夜を明した。翌日震動が止むものと思いの外、微震
であるけれども一時間に二、三回或は三、四回づつ絶え
間がないので、飯も外で炊く事五、六日、また小屋に寝
ること十日以上、十四、五日のものもいた」と、書きし
るしている。
 一條村の被害は、死者が一七名(男一〇、女七)、負傷
者二名であった。死者は家が潰れたために圧死したもの
がほとんどで、老人や子どもが多かった。死者一七名の
うち一四名は大島田であった(「旧一條村役場文書」)。
 家屋の被害は、全壊五六戸、半壊二五戸、壊れたもの
七二戸で、そのほか土蔵や板蔵の類も八〇戸以上が潰れ
たり壊れたりした。地区別にみると、大島田・政所・岡
島田・前川の被害が大きかった。特に、大島田は、二八
戸が全潰、七戸が半潰、残る四戸も破壊で、三九戸が全
戸被害という惨たんたるものであった。前川も三五戸の
うち一〇戸全潰、五戸半潰、二〇戸破壊と大きな被害を
出した。社寺も、大島田の神社と寺・岡島田の神社・前
川の神社は全潰、前川の寺・寺田の神社が半潰となった。
学校の被害は幸いにして少なかった。市條小学校は玄関
明治27年 庄内大地震の一條村の被害
(単位戸数・人数)
区分
市条
法連寺
大島田
政所
岡島田
前川
南平沢
北平沢
寺田
合計
全戸数
66
22
39
2

9
35
7
17
46
243
全潰
家屋
2
7
28
1
3
10
1
4
56
社寺
2
1
1
4
土蔵
2
3
2
7
板蔵類
1
1
半潰
家屋
4
5
7
3
3
2
5
2
25
社寺
1
1
2
土蔵
12
4
3
1
3
29
板蔵類
2
2
4
破壊
家屋
25
9
4
1
2
20
3
5
3
72
社寺
1
1
2
学校
1
1
2
板蔵類
15
5
6
1
5
40
死者
1
14
1
1
17
負傷者
2
2
注 「旧一條村役場文書」の「郡役所への進達綴」より作成。
が少し壊れた程度、島田小学校も建具や障子が数十枚壊
れ、校舎の建物も少し壊れたが、屋根には影響がなく被
害は少なかった。両小学校とも授業には支障がなく、不
幸中の幸いであった。この地震による一條村の被害額は
合計三万六二三七円にのぼった。
 この地震は、家屋の倒壊や焼失、それに伴う死傷者が
出るといった被害にとどまらず、土地の亀裂や異常現象
を随所に発生させた。既に引用した『山形県史』近現代
史料1に、そのもようが記述されている。一條村におい
ては、上川原の水田一町歩において灰白色の水、黒い土
砂を噴出したこと、寺田の山数十坪が六尺~八、九尺に
わたって数か所陥落し立木が倒れたことなどが書かれて
いる。
 被災者に対しては直ちに炊き出しが行なわれた。村役
場が郡役所に出した報告によると、二十三日から三日間
の炊き出しは米一石六斗に及び、この代金は九円三銭に
のぼった(「旧一條村役場文書」)。
 また、国から恩賜金として震災救助費四五円余りが下
付されることになり、その配分方法などを十二月八日の
村会に提出した。死亡した人には一人につき四一銭四厘
で一七人分七円三銭八厘、負傷者は一人につき七銭で三
人分二一銭、全潰の家には五七戸分二八円八六銭五厘、
半潰の家には二五戸分五円七一銭五厘、家が壊れた者に
は七二戸分三円六〇銭が下賜された。恩賜金はあわせて
四五円四二銭八厘であった。
 明治二十七年(一八九四)八月、わが国は朝鮮進出をめ
ぐって清国と対立し、日清戦争が始まった。そのためか
恩賜金という名目の政府の資金援助は割合少なかった。
 地震による被害は庄内三郡に及んだため、飽海郡役所
内に「荘内三郡震災救済事務所」が設けられた(「旧一條
村役場文書」)が、郡費による救助費三〇円余も直ちに支
給されることになり、同じ十二月八日の村会にその配分
が提案された。郡費の方は死亡者一人当り二七銭六厘、
負傷者一人四銭五厘、そのほか罹災して困っている者五
八人に対し計二五円余り、合計三〇円三九銭四厘が支給
された。
 また、郡費からは、年が明けた二月に、備蓄儲蓄法に
より小屋掛料が支給された。一條村では一九名が、それ
ぞれ四円から七円まで、計九四円の支給を受けた(「旧一
條村役場文書」)。
 この震災には、外国人を含め全国各地から多くの救援
物資や義捐金が寄せられた。ふとんやシャツなどの衣類
を配分したもようや義捐金の配分についての書類が、
「旧一條村役場文書」の中に残っている。内外の篤志者
からの義捐金については、前に記した郡役所の震災救済
事務所が集約して各村々に配分したが、「役場文書」には、
一條村に三回にわたって義捐金が寄せられたことが記録
されている。
 一回目は二十八年三月で、一七一円九七銭八厘の配当
であった。これは、震災者のうち困っている者七二名に、
一等から九等までの程度に応じて配分された。二回目は
同じ年の六月で、三五円六四銭二厘。これは、被害者一
五三名のうち極貧者五二名に、七等に分けてその程度に
応じて配分された。そして、三回目は、二十九年九月の
二三円四八銭二厘。これも、被災者のうち極貧者五二名
に、七等に分けて配分された。
 このほか、民間の篤志家からさまざまの救援が行なわ
れたが、中には庄内三温泉(温海・田川・湯野浜)が震災
地の負傷疾病者の宿賃を旧暦十二月までに限って半額に
割引するという独得のものもあった。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺
ページ 384
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 山形
市区町村 八幡【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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