[未校訂] (一) 文化元年の大地震 文化元年(一八〇四)六月四日
の大地震は、出羽国の鳥海山を挾んだ庄内北部と、秋田
県にわたる日本海沿岸で起きた激震であった。この地震
では、鳥海山に近い川北遊佐郷の被害がとりわけ甚大で
あった。この地震に関する史料や記録類は、それぞれ地
震の恐怖や被害の惨状、人々の狼狽のありさまを、かな
り克明に記録しており、いずれも前代未聞の大変事であ
ったと書き記している。この文化の大地震に関する史料
が豊富であることは、いかに大規模な激震であったかを
物語っている。
文化元年の地震は、後述の史料から総合すると、おお
よそ次のようなものであった。
文化元年の年は、六月一日(旧暦)以前から蒸し暑い曇
天の日が続き、夜は蚊がうるさく、蚊帳を釣って休むほ
どであった。六月四日夜の四ツ時(十時)頃、百千の雷が
落下したと思うほどの衝撃があった。龍厳寺の本堂や[庫|く]
[裏|り](台所)は、雷のように鳴りわたり、釣鐘も大揺れに揺
れ、鴨居がはずれたり、[長押|なげし]が落ちたりした。片町の
[潰|つぶれ]家から出火して二十数軒が延焼し、子どもの兄妹が
焼死した。恐怖のため親類の家が燃えていても、誰一人
として火事場へ行くものがいなかった。
本町の鐙谷家では四ツ時過ぎに、大風とともに浪を逆
巻くような海底の鳴りわたる音がして、何事が起きたの
かと案じていると、地震のためにいきなり寝たままひっ
くり返されてしまった。あわてて家の裏の方へ逃げよう
と走ったが、揺さ振られて立ちよろぼうほどで、皆手を
繫ぎあったり、木にすがりついたりして念佛を唱えた(鐙
谷家之記)。
地割れしたところからは、水が吹き出して小川のよう
になった。裂けた地面に落ち込んで死ぬ人もいた。蔵の
壁はみな振り落されてしまい、[籠|かご]のようになってしまっ
図(180) 文化元年(1804)の大地震による被害
た。地震の後は大津波が来るといって、近くの妙法寺山
や山王山に逃げ込み、そこに仮小屋を造って避難所とし
た。四日の夜は裏の土手や近くの山で夜明かしをした。
五日の朝にまた大揺れがきた。顔色が[常|つね]のような者は
一人もなく、とくに婦人は気を痛め、正気でなく、狂乱
状態の者もいた。家が倒潰し押し潰されて死んだ人も多
い。被害が甚しいのは船場町で、土地が最上川へ壱丈(三
㍍)ばかり延びている。伊勢屋の脇の小路は地割れのた
め四~五尺(約一・五㍍)から五~六尺(約二㍍)窪んだ。
市村屋という店の前の地割れは四尺余りで、深さは壱丈
余り、赤い泥水が涌出すること夥しい。海上からの津波
で、市中に水の溢れること三尺余りである。[突貫|つきぬき](本町
一丁目)から北の筑後町・近江町の辺は、潰れ方がそん
なにひどくはなかった。大庄屋衆から頼まれたので地震
安穏のご祈祷を施行して欲しいと上袋小路の肝煎が龍厳
寺へやってきたが、寺のなかには入れず、外庭へ不動尊
を勧請し、修法を三度執行した。
野宿は六月八日、あるいは十二、十三日頃まで続いた。
老若男女一五〇名ほどで唱えた念仏はいのちがけで、す
さまじく真実の念仏に聞えた。
酒田の郊外にあたる安田・上野曽根・牧曽根辺は大痛
みである。酒田街道の割れたことも夥しく、新田通り、
西野、泉辺も大いに痛んだ。藤塚の堀善蔵の[石場石|いしばいし](家
の土台石)は三尺ばかり埋って、泥水が涌き出し、家の
内から川のごとく水が流れ出た。門田辺も大痛み、もろ
もろの土手が平地になり、田ん圃が苗代のようになった。
川北三郷の遊佐・荒瀬・平田の老若男女は津波や余震
の恐怖から逃れるため、米や鍋・味噌・塩を持ち出して、
生石山・楢橋山・一条山・観音寺山・遊佐山へ登り、二、
三日たむろした。恐しさの中でも五日の夜、観音寺の菩
提寺山では、売りにきた餅や酒で上機嫌になり、[浄瑠|じようる]
[璃|り]や豊後唄などが出て景気よく騒いで夜を明かした。恐
れていた大津波もここまではこなかったので、鳥海山大
権現の御守りだと、一同大いにありがたがった。
余震は四日夜から五日朝まで四~五度あった。地割れ
の個所からは一~二㍍もの水が涌き上り、砂や泥を吹き
出し、硫黄嗅い匂いのする涌水が小川のごとく流れた。
高潮がきて、最上川・新井田川岸に繫いでいた船の繫留
綱が切れ、碇を引いた数百艘の船が互いに入り乱れてぶ
つかりあった。そのありさまは例えるものがないほどで、
生き地獄もかくやあらん、と書き記している。
六月十二、三日頃さしも続いた震いも止み、家に帰っ
たが、ただ茫然として途方にくれるだけで寝て休むこと
さえできなかった。
たまたま、この時、酒田にきていて地震にあった岩手
県の大林という人がその目撃記をかいている。その中に
「六日になってから海ふくれまいり」とあり、大津波が
あったことがわかる。その夜のこと、津波に打ちあげら
れた鯨が田畑の中でのたうちまわり、泥だらけになって
いたと記している(文化元子年、出羽庄内鶴ケ岡)。
思うに文化の大地震は直下型の地震で震度七以上の激
震であったと推定される。
被災の状況
亀ケ崎城内 大痛み
大手橋は途中から二つに折れる 家中屋敷十三軒
潰れる
大手門は左右に傾むく 町奉行所潰れ、
他に役家五カ所
潰れる
城代宅、長屋ともに潰れる 御米蔵二カ所潰
れ、残りは痛み
鵜渡川原
足軽屋敷など九十三軒潰れる
町筋にひび割れを生じ、土砂、水を吹き出す
酒田町
潰れ家(全壊) 三七三軒
大痛み家(半壊) 四一四軒
潰れ蔵 一七八カ所
大痛み蔵 四一二カ所
寺院大痛み 林昌寺・善導寺・正徳寺・海晏寺・泉
流寺・妙法寺・龍厳寺、なお持地院と海向寺は痛ま
ず
社家 一軒潰れ(山王社人)
修験 三軒潰れ
焼失家屋 二十三軒(片町から出火)
焼失蔵 五棟
死亡者 十六人(内二人焼死)
遊佐郷
潰れ家 一、三〇四軒 斃馬 三十六疋
死亡者 九十七人(「遊佐郷御旧記調」では
一〇九人)
平田郷
潰れ家 五三一軒 死亡者 十六人
荒瀬郷
潰れ家 三九七軒 斃馬 十八疋
死亡者 四十五人
宮野浦村 一〇六軒潰れ
黒森村 三十一軒潰れ
広岡新田 二十二軒潰れ
広野新田 五軒潰れ
奥井新田 三軒潰れ
地震による被害は、酒田よりも鳥海山周辺の郷村に多
かった。とりわけ遊佐郷では百人近くが死亡し、各村ほ
とんどの人が怪我をして、満足な者は一村に一人か二人
であったと記されている。吹浦の関所も大破し、吹浦宿
も残らず潰れている。秋田の被害も甚大で、塩越(象潟)
は五五〇軒が残らず潰れている。象潟はこの地震で隆起
し、俳聖芭蕉が「松島は笑うが如く、象潟はうらむが如
し」と記した九十九島の美観も現在の形状に一変した。
六月四日の地震と同時に、鳥海山が噴火しているが、
小規模のものらしく史料に乏しい。新山(享和岳)を形成
した享和元年(一八〇一)の大爆発から、四年目にして起
きた小爆発であった。「噴火の音は雷のようであった」と、
「田中又右衛門聞書」に記されている。鳥海山の噴火と
地震との連動は大同元年(八〇六)と、この文化元年のと
きにみられる。
救済 文化元年八月、本間家は自家の罹災も顧みず、
三千両を提供して被災者の救済にあたった。秋田の亀
田・本荘両藩に対しても、[夫食|ぶじき]貸しや、震災救助金を提
供している。
文化元年七月に酒田町[長人|おとな]の被災者四人が、五両ある
いは十両の復興資金の貸付を藩へ願い出て許可されてい
ることが、「三十六人御用帳」に記されている。
遊佐郷の代官[諏訪部権|すわべごん]三郎が、藩に無断で郷蔵の米四、
○二二俵を被災者に与え、民心の動揺を鎮めたことは有
名な話である。彼はまたこのとき建築資金として一人へ
一両二~三歩ずつ、合計で一、七二九両三歩を郷民に貸
与したり、圧死者の出た家族には、一人につき米二俵を
与えるという善政を施している。
荒瀬郷では小屋掛拝借金として、大百姓に一両三歩、
小百姓に二~三歩と籾米二~三俵を、十年賦無利子で貸
与している。
これまでみてきたように文化元年の地震記録や史料と
しては「文化元甲子大地震控」(龍厳寺文書)、「文化元
子六月四日夜四ツ時、同五日暮六ツ時庄内並本庄大地震
にて大変之次第聞書」(田中又右衛門)、「鳥海山煙気之
[扣|ひかえ]・庄内領地震之扣」(玉泉坊文書)、「鐙谷家之記」(鐙
谷家文書)、「出羽国酒田大地震之事」(藤井家文書)、
「文化之度大地震記」、「文化元年羽庄変見聞実記」、「庄
内飽海郡大変之記」、「飽海郡地震大変記」など、数多く
の史料が残っている。