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項目 内容
ID J2600631
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1771/04/24
和暦 明和八年三月十日
綱文 明和八年三月十日(一七七一・四・二四)〔八重山群島〕
書名 〔宮古史伝〕○宮古島S2・2・20 慶世村恒任著・発行者
本文
[未校訂][明和の大海嘯]後櫻町天皇明和八年(皇紀二四三一)即
ち尚穆王二十年三月十日午前八時頃、地震があつて不時
に退潮し岩礁砂濱が遠くまで露はれた。海岸諸村の人々
は之を怪んでゐる内忽ち南方から前後三回に及び波高十
二三丈、又は三丈五尺又は二丈五尺に達する大海嘯が襲
って来て、宮古本島の東海岸及び來間、池間、伊良部、
下地、多良間、水納の各離島を洗ひ、友利、砂川、新里、
宮國、池間、前里、伊良部、仲地、佐和田、塩川、仲筋、
水納の十二箇村に害を及ぼした。下地島は無人島故人畜
の害なく、來間島は高所に邑ある故これも人畜に害はな
かつたが、他の遭難溺死者は實に二千五百四十八人(男
千百四十九人、女千三百九十九人)の多數に上り、馬四
百三頭、牛二百三十八頭、また洗ひ去られた 公設建物
は村番所六軒、織布屋十六軒、藍藏五軒、船具屋一軒崩
壊流失し、猶ほ大小船舶七十六隻、橋梁三座破損した。
被害地域は田畑百二町九段五畝二十七歩、防潮阿檀林地
二十九万九千四百坪、薄原六万二百坪、茅原十二万百坪、
籔地二万千坪に及んだ。而して大小の岩塊砂礫は一帯の
地に打ち揚げられて荒原と化し、石垣溝梁樹木家屋の倒
壊せるあり流失せるあり、人畜等倒壊物に壓せられたる
者等ありて、誠に阿鼻叫喚の巷と化して慘を極めた。在
番及び頭などは現場に急行し庶民を督して救護収容に努
めた。此の報が中山政府に達するや、國王は大いに驚き、
社寺に祈念せしめ、毛維文龜川里之子親雲上盛喜を慰問
使として現場を訪はしめた。此の時の被害區域は宮古諸
島に止まらず、八重山、久米、慶良間の諸島に及び、八
重山の被害は最も甚大で宮古の數倍に達し九千三百九十
三名溺死者を出した。
 此の被害で多良間島は悉く農作を損じ、避難者は飲食
の料に缺乏したので、政府は令して各村から公用穀を廻
送せしめた。又水納島は房屋が悉く流失したので貢布を
免ぜられた。
 友利、砂川、新里、宮國の四箇村は避難生殘者が少く
て一村を作ることが出來ない 故に佐和田、長濱、國仲、
仲地、前里の五村から人民を分け移して、罹災地の後方
の高所に新しく村邑を建てた。以後舊村の跡を[元島|もとすま]と呼
んでいる。當時の罹災死屍の沿岸に漂着した者は皆與那
覇西方の池の崎に収容し合葬して小碑を立てた。今に殘
存す。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺
ページ 139
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 沖縄
市区町村 宮古島【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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