[未校訂]福島村
福島村について「日向国史」には、「明
治九年田吉に合す」とあり、「日向地誌」
の田吉村の部の管轄沿革に、
「本村ノ内福島ハ日向国風土記、天正十九年日向国郡分
帳、元禄十五年日向国郡分帳、元禄十五年日向国郷村帳
ニ皆見エズ。唯正徳延享ノ頃郷村帳ニ始テ見ユ。宮崎郡
ニ属シ延岡藩主牧野備中守、後ニ内藤備後守領地トアリ。
[顧|おも]フニ其地[廑|きん]々タル一部落独立シテ一村ヲ成スニ足ラ
ス。蓋シ古ハ本村ニ属シ中古以来分テ一小落ヲ成セリト
見ユ。」
とある。しかし幕府領のことを書いている「日向国御料
発端其外旧記」には、
「一那珂郡之儀高橋右近太夫殿領分、有馬左衛門佐殿領
分之節寛文二寅年(一六六二)地震津浪ニテ新別府村、吉
村、下別府村ハ田地海成、福島村ハ田畑皆無所と相成候
由ナリ。」
とある。だからこの時に福島村に住んでいた人々が、上
流に住みついたのが、今の福島町であるといわれている。
そして元の福島村の地に、また土砂が堆積して人が住み
ついたのが、後の福島村で、これが田吉村に合併したの
である。
(2) 寛文の大地震と正蓮寺隄
寛文大地震(外所地震)
寛文二年(一六六二)九月十九日[子|ね]の[刻|こく]
(二十四時)に起こった大地震は日向国で
起こった最大の地震で、有史以来例のない地震として諸
書に記されており、これも有名なできごとである。関係
の二、三の資料を挙げれば、「日向纂記」(平部嶠南著)に
は、
「寛文二年九月十九日の夜、子の刻日向国地大に震し、
且つ津波俄に来りて那珂郡の内、下加江田本郷所々の地
陥って海となること周回七里三十五町、田畑八千五百石
余、米粟二千三百五十石余流失あり、潰家千二百十三戸
の内、陥って海に入るもの二百四十六戸、其人員二千三
百九十八口の内溺死十五人、牛馬五頭に及べり。飫肥の
城にも石垣九ケ所百九十二間(約三五〇㍍)破壊し、城[隍|ほり]
二ケ所埋り外諸士屋敷、土蔵石垣等の破損勝て数ふるに
遑あらず誠に古今未曾有の大災なり。」
とあり、「延陵世鑑」には、
「寛文二壬寅九月日向国中大地震なり。中にも宮崎、
那珂の両郡甚だしく山崩れ谷埋れ民屋の破損は数を知ら
ず。海辺の田畠海となること凡そ七、八千石に余れり。
常に潮の満に岩頭をひたす所地震後は岩頭三四尺海底に
あり。是を以て見れば地の陥ること三四尺余なるべし。
前代未聞の大地震也。」
とあり、また「日向国御料発端其外旧記」には
「一那珂郡之儀有馬左衛門佐殿領地之節寛文二寅年地震
津浪ニテ新別府村、吉村、下別府村ハ田地海成、福嶋村
ハ田畑皆無所ト相成候由ナリ。」
とある。
また、橘 三喜の「一宮巡詣記」には
「熊野原を行き過ぎ、たさ(よ)
しと云う所を通りけるに入
り海広く見えけり、近きころ迄、とんところと云う村あ
りけれども、大地震津波来りて今は入江に成りたると聞
き 『初塩にとんところびて家もなし』云々」と書いて
外所地震の供養碑
ある。これらの記事によって、その惨状を推察すること
ができるが、橘 三喜の記事にあるように、とんところ
(外所)村は福島村とともに海底に没し去ったのである。
それでこの地震を「[外所|とんところ]地震」と呼ぶ人もある。
現在木花島山に昭和三十二年九月十九日に、有馬美利
名で建てられた「外所地震三百年忌供養碑」がある。そ
して碑の側面に、
「寛文二年九月十九日ノ地震デ外所村海中ニ陥没シ人
畜多数罹災シタ以来五十年毎ニ碑ヲ建テテ供養シテ来タ
ガ本年三百年忌ニ相当スルノデ将来ノ無災安泰ヲ併セテ
祈念シナオコレヲ後世ニ伝エルタメココニコノ供養碑ヲ
建立スル。」と刻まれている。
正蓮寺内隄
外所村の陥没によって、加江田城のある
木花の丘地と、その南方の加江田の丘地
とに[挟|はさ]まれる三角形の平野は、橘 三喜の文に見られる
ように、入り海となった。その後、年を経るにつれて加
江田川の上流から流れてくる土砂によって、しだいに泥
沼になってきたので、土地の人々は享保年間(一七一六
~一七三五)に島山部落を基点にして、外海と区画する
堤防を築いた。これを正蓮寺内隄と呼んだ。この地方で
は車阪城(加江田城)の城壁に築いてあった石垣をもって
堤を築いたと伝えているが、車阪城は中世の城であるか
ら、近世の城のように、石垣がある筈はないのである。
しかもこれを正蓮寺隄と呼ぶのは何故であろうか。これ
はやはり正蓮寺の石垣を用いたということが正しいので
はないかと思う。
「日向地誌」には熊野村の部に、
「正蓮寺内隄
木花山ノ東麓ニアリ寛文二年壬寅九月十九日ノ海溢ニ
陥テ海トナリシヲ、享保中之ヲ築テ隄内ニ新田ヲ開ク。
隄東西八町(約八七二㍍)高さ六尺(約一・八㍍)敷八間
(約一四・五㍍)馬蹈三間(約五・五㍍)水門二ケ所」
と書いてある。敷というのは堤の底幅で、馬蹈は上面の
幅である。こうして堤の内側に、全面積百二十九町(約
一二九㌶)の水田がよみがえったのである。
正蓮寺外隄
その後、文政年間(一八一八~一八二九)
に島山の杉田新平という人が、またその
外側に堤防を築いた。これを正蓮寺外隄といった。「日
向地誌」には、
「正蓮寺外隄
内隄ノ外ニアリ東西十五町余(約一、六三六㍍)文政ノ
頃築ク処ナリ。隄敷十間(約十八㍍)高一丈余(約三㍍)馬
蹈三間(約五・五㍍)処々ニ[根堅|ねがため]ノ[篠蕩|しょうとう]アリ水門三ケ所」
とある。この隄によって不毛の地約六十町(六〇㌶)が美
田となった。こうして大地震で失われた田がしだいによ
みがえってきたのである。