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項目 内容
ID J2600111
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1662/10/30
和暦 寛文二年九月十九日
綱文 寛文二年九月十九日(一六六二・一〇・三〇)
書名 〔木花郷土誌〕木花郷土誌編集委員会編S55・12・20 (財)木花振興会発行
本文
[未校訂](ロ)
[寛文|かんぶん]大地震([外所|とんところ]地震)
 寛①文二年(一六六二)九月十九日[子|ね]の[刻|こく](二十四時)に起
った大地震は、日向国で起った最②大の地震で、有史以来
例のない地震として諸書に記されている。
「[日向纂記|ひゅうがさんき]・平部嶠南著」には
「寛文二年九月十九日の夜子の刻、日向国地大いに震し、
且つ津波[俄|にわか]に来りて那③珂郡の内下加江田本郷所々の地
[陥|おちい]って海となること周囲七里三十五町、田畑八千五百
石余、米粟二千三百五十石余流失あり。潰家千二百十三
戸の内、陥って海に入るもの二百四十六戸、其人員二千
三百九十八口の内、[溺死|できし]十五人、牛馬五頭に及べり。飫
肥の城にも石垣九ケ所百九十二間破壊し、城[隍|ほり]二ケ所埋
り、外諸士屋敷、土蔵石垣等の破損勝て数ふるに[遑|いとま]あ
らず。誠に古今[未曾有|みぞう]の大災なり」(原文片仮名)
「[延陵世鑑|えんりょうせかん]」には
 「寛文二壬寅九月日向国中大地震なり。中にも宮崎、
那珂の両郡甚だしく山崩れ谷埋れ民家の破損は数を知ら
ず。海辺の田畠海となること凡そ七・八千石に余れり。
常に潮の[満|みち]に岩頭をひたす所、地震後は岩頭三・四[尺|しゃく]
④の海底にあり。是を以って見れば地の陥ること三・四尺
なるべし。前代未聞の大地震なり」
注=①四代将軍徳川家綱の時三一八年前 ②[震度|マグニチュード]七・八 ③那珂郡
上・下加江田、本郷南方、本郷、本郷北方、郡司分、殿所 ④一メー
トルは三・三尺
「日向地誌」加江田村の部には
「寛文二年壬寅九月十九日の海溢に、下加江田より本郷
に至るまでの地、過半陥りて海となる。其の周囲七里三
十五町、田畑高八千五百石余に及べる中に、[殿所|とんところ]とい
う[字地|あざち]などあり、青島と相並びて東に突出せし所なりと
[云|い]ひ伝ふ。[橘三喜|たちばなのみつよし]、一宮巡詣記に云う。熊野原を過
行き⑤タリシという所を通りけるに入海廣く見えたり。近
き頃までは、トントコロと云う村ありしかども、大地震
に津浪来りて今は入江に成りたりと
聞きて、「初潮にとんところびて家
もなし」、[云云|うんぬん]。[按|あん]ずるに三喜が此
地を通行せしは、延宝三年九月十七
日なり。寛文二年の地震より僅に十
四年を[経|へ]、今の正蓮寺[隄|づつみ]は未だ築
かず木花山の麓まで皆一面の湾海な
り」(原文片仮名)
注=⑤今その地名なし
五基の供養碑(島山ひさや食堂南)
「日向国御料発端其外旧記」
「寛文二寅年地震[津浪|つなみ]にて、新別府村、吉村、下別府村
は田地海となり、福島村は田畑皆無所と相成[候|そうろう][由|よし]なり」
「佐土原地震集記」
「寛文二年九月十九日夜、大地震あり。伊東領内本郷の
一在所、田地九千石揺り沈め海となる。其の村々の人家
屋敷、その囲い、竹木までゆり沈め、木も竹も柱も海中
より立てり。人は丘伝いにて上り、幸ひに死人はなし。
彼の一在所は全て入海となる。魚も多く入り込めども、
家の柱や竹木沈み立ちて、網を下すこと叶はず」
この諸記録によって、地震の激しかったこと、その惨状、
広がり等が推察できる。
この地震によって海中に没した[外所|とんところ]村に因んで、これ
を外所地震ともいっている。
現在島山に、昭和三十三年九月十九日、宮崎市長有馬美
利名で「外所地震三百年忌供養碑」が建てられ、その碑
面に
「寛文二年九月十九日ノ地震
デ外所村海中に陥没シ人畜多
数罹災シタ。以来五十年毎ニ
碑ヲ建テテ供養シテ来タガ、
本年三百年忌ニ相当スルノ
デ、将来ノ無災安泰ヲ併セテ
祈念シ、ナオコレヲ後世ニ伝エルタメ、ココニ、コノ供
養碑ヲ建立スル」
と刻まれている。
供養碑(島山、ひさや食堂南)
内隄と外隄の図
(ハ)
正蓮寺の[内隄|うちづつみ]と[外隄|そとづつみ]
 寛文二年の外所地震によって、加江田川上流から運ば
れた土砂の堆積による三角州正蓮寺平野は、入海となっ
てしまった。
 その後年を経るにつれて、入江の海は洪水毎に土砂に
埋り、しだいに泥沼になってきたので、郷土の人々は、
①[享保|きょうほ]年間(一七一六~一七三五)島として残っていた島山
を基点にして、外海と区画をする堤防を築いた。
「日向地誌」熊野村の部に、
「正蓮寺内隄」
 木花山ノ東麓ニアリ。寛文二年壬寅九月十九日ノ海溢
ニ陥テ海トナリシヲ、享保中之ヲ築テ隄内ニ新田ヲ開ク。
隄東西
②八町、高サ六尺
③、敷八間
④、馬蹈三間
⑤、水門二ケ所」
と記してある。
 こうして堤の内側に、全面積百二十九町(約一二九㌶)
の水田がよみがえったのである。
注=①二六四年前 ②約八七二㍍ ③約一・八㍍ ④堤の底巾約一四・五
㍍ ⑤上面の巾約五・五㍍
 その後、文政年間(一八一八~一八二九)、島山の杉
田新兵([新左衛門|しんざえもん])が、その外側に堤防を築いた。これを
正蓮寺外隄といった。
「日向地誌」には
正蓮寺外隄。内隄ノ外ニアリ。東西十五町余(約一・六
三六㌖)文政ノ頃築ク処ナリ。隄敷十間(約一八㍍)、高
一[丈|じょう]余(約三㍍)、馬蹈三間(約五・五㍍)、処々ニ[根堅|ねがため]
ノ[篠蕩|しょうとう]アリ。水門三ケ所」
とあって、この堤によって不毛の地約六十町(六〇㌶)が
美田となり、外所大地震で失われた田を取りもどしたの
である。
 この二度にわたる大工事は、内堤は約二百六十年前十
九年間かかり、外堤は約百六十年前十一年間かかって完
成した。
 これはわれらの祖先が営々と辛苦を重ねて完成した工
事であったに違いなく、今にその偉業を偲び称えている
のである。
今は農道となっている堤防
水門(三橋)
今は水門上を国道220号線が通っている
 なお郷土では、この正蓮寺
内・外二隄は、木花山車阪城
の城壁に築いてあった石を運
んできて、築いたと伝えてい
るが、郷土史家石川恒太郎氏
は「車阪城は⑥[中世|ちゅうせい]の城であ
るから、⑦近世の城のように石
垣がある筈がなく、これを正蓮寺隄と呼ぶのは、やはり
正蓮寺の石垣を用いたということが正しいのではないか
と思う」
と言っておられる。
 さてその正蓮寺であるが、随分古い寺であるらしく、
寺が地名となって残ってはいても、その所在については、
今もって分明でない。
 外隄の施工者として名を留める杉田新左衛門の墓は、
その母の墓とともに国道二百二十号沿線木崎五番講杉田
実宅屋敷、大榎の下氏神社の境内に建っている。
注=⑥鎌倉・南北朝・室町時代⑦安土桃山以降江戸時代。例・延岡城・高
鍋城・飫肥城
杉田新左衛門の墓
出典 日本の歴史地震史料 拾遺
ページ 54
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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