[未校訂]浜島町史編さん委員会H1・10・1 浜島町教育委員会発行
三 明応の津波と製塩場の崩壊
(前略)
この年の地震・津波記録が塩屋[地下|じげ]文書に残されてい
る。塩屋における製塩記録として貴重である。しかし、
神社の由来書を江戸中期、寛保年中に書写されたもので、
神社の見取図の上に書かれ、誤字、落字も多く通読しが
たい古文書である。一部修正して掲載する。
明応七戊午六月十一日午ノ刻、申の刻迄、火神動の
大地震ニテ海道一面御地の国は何国も大波[上|のぼ]リ大破
也。殊ニ紀ノ国、志摩ハ南うけにて波高く、此時塩屋
竈本、塩浜は大破也。惣て浜取の事、月々九日より十
九日迄潮時[能|よき]ニ付、竈本浜取小供迄、浜取ニ出いそが
しきにより竈本浜取家内[不残|のこらず]おぼれ死、其内竈本三
人たすかる。壱人は相生ひかしの竈本、壱人ハ東浦小
和田ノ竈本福太夫、又壱人明星竈本竈太夫、以上三人
たすかる。浜取あがり所よき高所ハ家内ぐるみ家三十
九軒たすかる。諸人老若男女、小供壱人、二人たすか
るもの有、流人よりて方々見付、ひの木山能所見立住
居するも有。又ひのき山路ち(地)つづきの事ニ、かみの口、
中ノ口、下ケ地三所を見立、十年[斗|ばかり]のうち[有付|ありつく]も有り、
竈本三人、氏神塩釜右袖ニうけ、此所を檜山路と言、
御塩焼太夫ニ渡シ置。残十軒竈本家内ぐるみおぼれる
より氏神[不知|しらず]、明応七年より寛保何年迄預り置ゆへ、
わけハ残十人の竈本の添地となるもの又畑ニなるも屋
敷、田畑ニ成ル (句読点は筆者)
このように、断片的に書かれたものであるが、要約す
れば、桧山路川の下流、現小字名の古新田、浜新田、丸
山、[潟|かた]は海水入り込む大きな池になっていて、このまわ
りに一三軒の塩焼竈本があり、明応の津波で一〇軒は流
失三軒は助かったが川の上流の桧山路に移った。被害を
受けなかった三九軒は高所で、そのまま塩屋に残ったと
記している。
塩屋・桧山路の地名、製塩地の場所、製塩方法につい
ても焼塩方式を採っていたこと等がこの文書からうかが
い知ることができる。
また、宝泉寺文書の中に「明応
戊
午
六月、大地震有テ
大破ス、其時代塩ガマ不レ残大破、其砌リ山神前エ借寺
立改メテ清水寺ト云フ、其時家数弐百軒有ル由」と記し
ている。
室町末期には、村の境界は定まっておらず、迫子、塩
屋の沿岸地は製塩場として栄えたこの時代は、これらを
ひっくるめて塩屋二百軒としたものだろうが、明応の津
波は製塩地を痛撃したために製塩業は姿を消し、地名を
残すのみとなった。
塩屋の宝泉寺の過去帳に、「不幸大地震ニ遭遇シ [之|こ]
レニ加ヘテ津波ヲモ押シ寄セ 当寺ヲ始メ塩釜ニ至ルマ
デ[蹂躙|じゅうりん]セラレ 其ノ惨タル事 [紅塵|こうじん][万丈|ばんじょう]ノ[裡|うち]ニ呼吸セ
ル人の到底言フベクモ非ラザル也ト [而|しかし]テ当時唯一ノ
眼目タル宝物ヲ始メ 過去帳ニ至ルマデ失セルナリト
古説に伝フ」とあり、(後略)