[未校訂]文政地震と石田源左衛門の救恤文政十一年、田植仕付時、当地は
「ふけ田」といわれる湿田まで白割
れになるほどの干ばつに悩まされていた。村々では盛んに雨
乞いをし、ようやく降雨によって、植付けをしたが、例年よ
り十五日から二〇日の仕付け遅れとなった。
その後、夏中雨勝、稲草は「萱のことく、如何豊作、米の
置所も有之間敷」というほどに繁茂したが、秋になると穂は
出たけれども実らず、ただ「枯野のことく」、赤く枯れてし
まった。五〇年来の凶作と人々は噂した。この秋は日和よく、
初冬も暖冬で、十一月ごろ、山桜、岩つつじ等が狂い咲いた。
年が改まり小寒のころまでは平年のようだったが、間もなく
寒気が強まり大雪となった。「保倉川なども吹込み、一体
[透間|すきま]もなく候、誠に寒き事、氷(凍)る事、何拾年にもこれなき事
也、雪は三十年このかたの大雪也、一丈二・三尺と相見え申
候」 (「震変書留」長走村
村松正樹家蔵
)という。この年は、出羽国大満水、
九州大風・津波等、異変が各地に起こっていた。震災記録に
はこのように、地震前後の異変を付記したものが多い。
ともあれ、この年十一月十二日朝五ツ時(午前八時)、大
地震が起こった。中心は三島郡、蒲原郡、長岡、三条等の中・
下越地方で、当地では直接の被害はなかった模様である。当
時、この地域は脇野町代官所の支配下にあった。
当地と同支配の三島郡村々では大きな被害が出ている。こ
れらの村村へ対し、脇野町代官所は救荒のために年々貯穀を
させておいた囲籾を放出し、急場の食料に充てた。しかし、
小屋掛けその他家財取繕いなどの費用がなく、幕府でも財政
窮乏のため、「御時節柄、拝借物等は難被仰付」という状態
だった。このとき、頸城郡顕聖寺村の庄屋源左衛門が義援金、
金千両を差し出し、これは次のように配分された。
脇(潰家百六十一軒)野町村潰家手当金三百六十四両二分
内百七十一両小屋掛料
二百三両二分急難御救御手当
外金十両二分 即死人・怪我人御手当
吉(潰家五十五軒)崎村潰家手当金百二十六両二分
内金五十五両小屋掛
金百四十一両二分急難御救
上(潰家百十二軒)岩井村潰家手当金二百五十三両二分
内金百十二両小屋掛
金百四十一両二分急難御救
外金五両 即死人・怪我人御手当
新(潰家五十四軒)保村潰家手当金百二十二両二分
内金五十四両小屋掛
金六十八両二分急難
外金三両 怪我人御手当
河(潰家五十一軒)根川村潰家手当金百十五両二分
内金五十一両小屋
金六十四両二分急難
外金一両 怪我人御手当
これに対し、三島郡村々は「御仁恵之段、小前之ものへも
[為申聞|もうしきかせ]、御高恩之程、後年ニ至候共決て忘却仕間敷候、」
と感謝の意を表している。幕府は顕聖寺村庄屋源左衛門へ
「永苗字御免」、つまり、子々孫々に至るまで、「苗字」の
公称を許し、その善行を褒賞した。
これにより、源左衛門家は以後「石田」姓を公称するこ
ととなる。なお石田氏はこの後、度々各地の救恤に当たり、
その他江戸城西丸出火上金(弘化四年)、御備筋上納金
(安政二年)等で幕府へも献金、公益・慈善事業に力を尽
くしている。これにより、石田氏は、安政二(一八五五)
年「其身一代帯刀」も免許されている。