Logo地震史料集テキストデータベース

西暦、綱文、書名から同じものの一覧にリンクします。

前IDの記事 次IDの記事

項目 内容
ID J2500033
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1703/12/31
和暦 元禄十六年十一月二十三日
綱文 元禄十六年十一月二十三日(一七〇三・一二・三一)〔南関東〕
書名 〔秦野市史研究 第十一号〕○神奈川県秦野市城山H3・3 秦野市
本文
[未校訂](梵天山(城山)の庚申塔 大原信男)
4 板碑型庚申塔の製作年代
(1) ウ(ママ)永は安永ではない
城山は梵天と庚申と稲荷と観音を祀るが、梵天山と言
うのは初めに梵天が祀られたことによって名づけられた
と思われる。自然石の梵天が最初に祀られたと思う。そ
の後、庚申が祀られ板碑型庚申塔がつくられたものと察
知される。その時期が前述したように寛永か宝永か安永
である。その後、庚申塔が痛んだので庚申年である元文
五年正月一八日に兜巾型庚申塔が大槻村の同行一八人に
よって作られた。その時に梵天が自然石では何だかわか
らないので梵天石祠(高さ五五・五糎、幅二四・五糎)
が作られたと思われる。破片の文字からすると元文五年
であるので兜巾型庚申塔と同時につくられたことになる。
兜巾型庚申塔も板碑型庚申塔も同質の七沢石(凝灰岩)
でつくられ兜巾型は碑面に剝離部分はあるものの文字は
鮮明であり製作年代は板碑型の方が古く安永二年(元文
五年より三三年後)説は消えることになる。
(2) 元文再建は塔が割れたため
安永説が消えると製作年代は寛永か宝永かということ
になる。宝永二年ということになれば兜巾型の元文五年
より、三五年前である。いくら風化しやすい七沢石とい
えども三五年で文字が風化して見えなくなったとは考え
られない。寛永二年(一六二五)ということになれば一
一五年たっている。一一五年では質の悪い七沢石では風
化が進むが文字が見えなくなる年数ではないので再建は
二つに割れたということになる。
二つに割れた原因は物理的衝撃によるものと想像され
る。その衝撃は大木が倒れて塔に当ったか、地震が考え
られる。大木が当ったならば塔はもっと破壊されたはず
である。小枝か梢ならば神の鎮座する周辺には必ず樹木
があるから衝撃は小さくなっているはずである。
地震ならば、この塔のように上部が薄く下部が極めて
厚く安定感が極めて良く更に底部に突起があり、台座に
は突起を入れる穴があるので小地震では倒れないはずで
ある。
宝永二年から元文までの大地震はない。宝永四年の富
士噴火はあったが大きな震動はなかったと思われる。寛
永二年からについて考えると元文五年までに、強力な地
震は大分ある。寛永一〇年(一六三三)に小田原を中心
にした大地震(M七・一)では小田原城は大破している。
慶安元年(一六四八)の小田原地震もM七・一であり、
被害は相当あったと思われる。元禄一六年(一七〇三)
の南関東大地震(M八・二)では小田原城の天主・本丸・
二の丸も倒潰焼失、その他も倒潰し、武家屋敷もほとん
どが倒潰、小田原藩相州領三六〇〇軒、寺社二三〇が倒
潰、死者一五一九といわれている、南関東大地震は元禄
地震ともいわれ大正一二年の関東大地震(M七・九)よ
り大きなエネルギーの地震で秦野方面も大きく揺れ倒壊
などの被害が相当あったものと思われる。
いつ頃二つに割れたかを考えてみたい。延宝八年(一
六八〇)が庚申年であるからそれ以前であるならば延宝
八年につくられているはずである。市内では池の島の鶴
田義春氏の屋敷内に笠付塔(市教委発行の秦野の道祖神・
庚申塔・地神塔には掲載されていない)があり□王供養
と読めるので山王供養であり三猿もある。この時に作ら
れなかったということは延宝八年以前の災害ではないと
いうことになる。どうしても元禄一六年の南関東大地震
で塔は倒伏し二つに割れ、元禄一六年から元文五年まで
の三七年間は、割れた上の部分を乗せて我慢し庚申年の
元文五年に兜巾型青面金剛文字庚申塔を新調したものと
考えられる。
出典 新収日本地震史料 続補遺 別巻
ページ 16
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 神奈川
市区町村 秦野【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

IIIF Curation Viewerで開く
地震研究所特別資料データベースのコレクションで見る

検索時間: 0.001秒