Logo地震史料集テキストデータベース

西暦、綱文、書名から同じものの一覧にリンクします。

前IDの記事 次IDの記事

項目 内容
ID J2401919
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1766/03/08
和暦 明和三年一月二十八日
綱文 明和三年正月二十八日(一七六六・三・八)〔津軽・陸奥〕
書名 〔鯵ヶ沢町史 三〕鯵ヶ沢町史編さん委員会S59・11・10
本文
[未校訂](6) 延寿院(曹洞宗通幻派)
『大塚家文書』の中に延寿庵の由来を記したものがある。
それによると(竹内運平氏書写)、
鯵ヶ沢漁師町木戸外高沢寺墓守堂之儀 是迄は東西七間、
南北二間半之処 高沢寺御住持御名儀にて普請を致し去
る明和三丙戌年正月廿八日朝(一七六六)大地震之ため
南側山大崩れ 其時墓所はあらまし埋れしが 雪解となっ
てから 西裏山之土を取崩したる土と 墓場の土と皆一
所に 北側に土堤を造りこれに雑木と松を植ひ付け 風
除けとなし 今迄内々有った地蔵尊を 此度新堤之其内
側に 地蔵堂・葬具小屋等を建立せり 是迄の墓守堂を
南方江其儘庫裡と成し 其地側並みに本堂を建立し 東
西七間 南北五間を建て、本堂と庫裡と共に南北七間半、
東西七間と成れり。是に使用成たる人足 其他の雑用は
墓持の人并に其他の人にて寄進致し候。材木は沢(深か)谷沢目
之物にて檜の木、松の木、杉板、柾に至る迄 本堂はあ
らまし当家一人の物入にて寄進建立せり。同年七月廿日
上町一統之寄進にて 去る明和三丙戌年正月二八日朝
大地震ニて死亡なしたる有縁無縁之諸霊并に海死諸霊之
大施餓鬼大供養を執り行ふ。当家にては 右供養に就き
先祖代々菩提の為 白銀二枚寄進セリ。是迄墓守堂之処
御本寺願ニ依リ 庵号を賜リ明和八辛卯年延寿庵と号セ
リ。導師御本寺観梁大和尚にて執り行ふ。右墓堂之由緒
は自分不分明に候得共 堂守は高沢寺前住代々長老にて
生国は勢州(伊勢・三重県)之人とかや。当年六十八歳
之老僧なり。御名は智学と申也。同庵大供養之寄進者覚
明和八辛卯七月
高沢寺御住主観梁大和尚様
境屋仁兵衛 能登屋伊右衛門
川口屋次郎吉 若狭屋五三右衛門
笠嶋三郎兵衛 境屋儀兵衛
若狭屋太兵衛 能登屋利三郎
若狭屋九左衛門 酒田屋吉右衛門
藤戸屋利右衛門 越前屋喜助
竹屋太郎兵衛 塩屋喜兵衛
大坂屋治兵衛 小松屋伝兵衛
能登山利左衛門 大塚屋又兵衛加賀屋庄右衛門 鹿島屋忠右衛門
中村屋又兵衛 能登屋庄右衛門
塩越屋利兵衛 播磨屋忠右衛門
平野屋又四郎 江戸屋円次郎
嶋屋助右衛門 中田屋九兵衛
油屋甚三郎 川口屋治郎右衛門
越前屋三九郎 秋田屋長右衛門
川村屋源四郎 本城屋弥左衛門
中村屋喜右衛門 能登屋長五郎
綿屋伝五郎
(苗字ナキ名ノミノモノ四十二名アリ略ス)
大工棟梁政吉 大工伝次郎 同 才助 同 三次郎
左官藤次郎 小兵衛
追寄進
竹屋伝次郎 小浜屋太兵衛
葛西屋才兵衛 菊屋善左(右か)衛門
塩屋治右衛門 河内屋八兵衛
庄内屋幸右衛門 小松屋又之助
本町の安左衛門 同所吉五郎
明和八辛卯七月大塚屋又右衛門平信宗記
とある。延寿庵は承応三年(一六五四)本寺高沢寺十代
住職観染の代創立といわれ(『旧町史』)、無量庵ととも
に町の両端に墓府堂として置かれたものである。庵号を
延寿庵と称するようになったのはこの記録によると明和
八年(一七七一)だという(承応二年創建ともいわれる)。
出典 新収日本地震史料 続補遺
ページ 306
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 青森
市区町村 鰺ヶ沢【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

IIIF Curation Viewerで開く
地震研究所特別資料データベースのコレクションで見る

検索時間: 0.001秒