[未校訂]地震と火事
寛文の大地震毎年のように襲いくる洪水とともに、人々
の生活をおびやかした天災として、忘れて
はならないのは地震である。地震の害は、洪水のように
しばしば襲いかかってくることはなかったが忘れたころ
に起こり、時として人々の生活を根底から揺るがすよう
な大きな被害をもたらした。
寛文二年(一六六二)五月一日に起こった地震は、比良
山東麓の琵琶湖畔を震源地とし、マグニチュード七・六
程度と推定されるこの大地震により、大溝領内は未曾有
の大被害をこうむることとなる。被害は、大溝領内だけ
で倒壊家屋一〇二二軒・死者三〇人余という大きなもの
であった『中村穣。家文書』なお、安曇川が、上流で土砂崩れの
ためにせき止められ[葛川|かつらかわ](大津市)で洪水による大きな
被害を出したのも、この地震の時のことである。
また、永田や鴨では、湖岸に近い地域が、この地震に
よって地盤沈下を起こし、かなりの部分が湖面下になっ
てしまったという。安曇川町の船木・藤江・三ツ矢では、
数多くの民家が湖底となったと伝え、いわゆる船木千軒、
藤江千軒・三ツ矢千軒なる伝承が生まれたのは、この地
震の被害に基づくといわれる。沈下した地域に、一〇〇
○軒もの家屋が実際に建ち並んでいたかはともかく、こ
の前後、広範囲にわたって、湖岸地域のある部分が湖面
下となったのは、まぎれもない事実のようである。とい
うのは、[承応|じょうおう]四年(一六五五)に作られたといわれる「千
石組絵図」では(写九八参照)『打下区、有文書』明らかに陸地に描
かれている鴨の湖畔地域が、元禄元年(一六八八)の年記
をもつ「永田村・大溝村魞場船路絵図」になると『三矢家、
文書』
すべて「入江」となってしまっているからである。この
地域は、明治になるとまた陸地として絵図に描かれ、永
い歳月の間に土砂の堆積が進み、再び陸地化したことが
わかるが、それはともかく、寛文の大地震を境として、
この付近の地形に大きな変化があったらしいことが、古
絵図の上からも明らかである。
ただ、厳密にいえば、元禄元年の絵図にみえる入江が、
寛文の大地震によりできたものかは、にわかに断定でき
ない。当時、寛文十年の瀬田川浚渫後、十数年も経て琵
琶湖の水位は、再び著しく上昇しはじめており、この湖
水面上昇による影響をも考えないといけないからである。
しかし、湖底に沈んだといわれる船木千軒、藤江千軒・
三ツ矢千軒の伝承や、単なる湖の高水にしては、入江と
なった部分が広範囲すぎることなどを考えあわせれば、
寛文の大地震の影響はいなめないであろう。
寛文の大地震ののち、小さな地震は時折あったものの、
大きな被害を与えるような地震ば、文政二年(一八一九)
までこの地域を襲ってはいない。文政二年の地震は、六
月十二日昼八ツ時(午後二時ごろ)起こり、藁園村では、
二三軒の家屋が倒壊したという『藁園区有文書』。「藁園村記」また、大
溝町でも南市本町だけで一六軒から倒壊・半壊の被害届
けが出されており、かなりの被害があったらしいことが
確認できる『福井芳郎家。
保管文書』
写一五〇 永田村・大溝町魞場船路絵図(写真省略)元
禄元年(一六八八)、永田村船持勘兵衛と大溝町三之丞
の、魞場と船路をめぐる争論時に、作成されたもの(本
編第一章第二節参照)。紅葉ケ浦辺りが、入江となって
おり、寛文二年(一六六二)の大地震による、地盤沈下
がうかがえる。