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項目 内容
ID J2400387
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1662/06/16
和暦 寛文二年五月一日
綱文 寛文二年五月一日(一六六二・六・一六)〔若狭・美濃・畿内〕
書名 〔新旭町誌〕新旭町誌編さん委員会S60・11・3 新旭町役場発行
本文
[未校訂]寛文二年五月朔日(一六六二年六月一六日)
 「是年藁園村ニ残ル家ノ四十二間(軒)内十太郎・金
平・嘉十郎是間ハ少シイガミ惣シテ蔵長屋賤所棟数合五
六八崩破ス。前代未聞ノ大乱ナリ。西江州ノ内、木津ハ
百分ノ一、坂本ハ過半、其ヨリ打下迄ハ不破。大溝ニ残
ル家城内町共ニ合シテ二三、其内町内二十一間ハ正シク、
残リハヒシケ同然ナリ。其外ハ愛想モナクヒシケタリ。
扨南ハ万木ヨリ北(岡)畏村ニ至迄無事ナリ。其ヨリ北ハ木津
二間残ル。今津ハ三分ノ一崩ル。海津過半崩ル、佐(沢)和村
ヨリ北西ヘハ六ケ村ニ七(軒)間残リ、其外悉ク崩レタリ……
…。扨朽木谷へ入リテ無惨ヒシケ………待(町)居村………老
若男女崩山ニ埋シテ死ス。」この記録は次に述べる資料
や郷帳から考えるとやや不正確な点があるが、近江に起
こった近畿地方における内陸発生型の最大規模の地震で
あったことには違いない。
 発生時刻は午の上刻、震源は上音羽、又は北小松沖合
二キロの湖中ということになっている。「玉露叢」によ
ると「志賀、辛崎両所之内一万四千八百石ノ内、田畑八
五町余湖中ヘユリコム。在家一五七〇軒頽ル……。」こ
のことを、地震前後の石高変化を表す郷帳で検討した資
料がある。
 郡内に限り見ると、正保二年(一六四五)七三七九九・
九五二石、元禄一四年(一七〇一)七三四六八・二八五石、
天保八年(一八三七)七三九六四・二八七石となり、この
地震を境に三三〇石減少している。同様に見ると栗太郡
では四八〇石、志賀郡で二三〇〇石減となっている。当
時の幕府の政策として新田開発が奨励されて石高の大幅
増加が見られた中で、上記のような減収が見られること
は不自然である。これは大きな自然災害を受けているこ
とを意味するものと考えられる。
 新旭町では、前述の記録からは石高減少は見られない
ので田地の陥没等の破滅的な影響はなかった模様である。
出典 新収日本地震史料 続補遺
ページ 87
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 滋賀
市区町村 新旭【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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