[未校訂]寛文二年五月朔日(一六六二年六月一六日)
「是年藁園村ニ残ル家ノ四十二間(軒)内十太郎・金
平・嘉十郎是間ハ少シイガミ惣シテ蔵長屋賤所棟数合五
六八崩破ス。前代未聞ノ大乱ナリ。西江州ノ内、木津ハ
百分ノ一、坂本ハ過半、其ヨリ打下迄ハ不破。大溝ニ残
ル家城内町共ニ合シテ二三、其内町内二十一間ハ正シク、
残リハヒシケ同然ナリ。其外ハ愛想モナクヒシケタリ。
扨南ハ万木ヨリ北(岡)畏村ニ至迄無事ナリ。其ヨリ北ハ木津
二間残ル。今津ハ三分ノ一崩ル。海津過半崩ル、佐(沢)和村
ヨリ北西ヘハ六ケ村ニ七(軒)間残リ、其外悉ク崩レタリ……
…。扨朽木谷へ入リテ無惨ヒシケ………待(町)居村………老
若男女崩山ニ埋シテ死ス。」この記録は次に述べる資料
や郷帳から考えるとやや不正確な点があるが、近江に起
こった近畿地方における内陸発生型の最大規模の地震で
あったことには違いない。
発生時刻は午の上刻、震源は上音羽、又は北小松沖合
二キロの湖中ということになっている。「玉露叢」によ
ると「志賀、辛崎両所之内一万四千八百石ノ内、田畑八
五町余湖中ヘユリコム。在家一五七〇軒頽ル……。」こ
のことを、地震前後の石高変化を表す郷帳で検討した資
料がある。
郡内に限り見ると、正保二年(一六四五)七三七九九・
九五二石、元禄一四年(一七〇一)七三四六八・二八五石、
天保八年(一八三七)七三九六四・二八七石となり、この
地震を境に三三〇石減少している。同様に見ると栗太郡
では四八〇石、志賀郡で二三〇〇石減となっている。当
時の幕府の政策として新田開発が奨励されて石高の大幅
増加が見られた中で、上記のような減収が見られること
は不自然である。これは大きな自然災害を受けているこ
とを意味するものと考えられる。
新旭町では、前述の記録からは石高減少は見られない
ので田地の陥没等の破滅的な影響はなかった模様である。