[未校訂]寛文大地震による山崩れ
安曇川東側、梅ノ木の南に数ケの山崩れのあとが見え
るが、その内の最大のものは通称「イヲウノハゲ」とい
い、硫黄の字があてられているが、その意味はわかりか
ねる。武奈岳の南西につづく山陵の頂上近くからのガレ
であって、頂部は一〇〇〇米、底部の谷まで比高約七〇
〇米に及ぶ見るからに怖ろしい大山崩れのあとがある。
これは土地の人の云い伝えによれば、三日程前から山が
うなっていたが、寛文二年五月一日突然山が飛んできて、
昔この下にあった町居、柚ノ木の二部落を埋めてしまっ
たと云う。
元禄二年二月三日、貝原益軒この谷を通り、
「[温井|ぬくい]村、此辺に、昔は町井[柚|ゆの]木と云両村あり。寛
文二年五月朔日、大地震の時東の山崩れて村里を埋み、
両村の人皆死すと云。東の山は、比良の高峰の両側也。
又谷の西にも高山あり。其間に谷川流る。町井、柚の
木は川ばたに在し村なりと云。此辺も高島郡也。篤信。
昔京にありし時、彼里の男の京に来りかたるをきけり。
大地震せし日、我れ朝より山にのぼりて、薪をきるに
おどろきて里にかへりしに、山くづれて、里は皆土に
埋もれ、わが父母兄弟親類、其外里人皆土に埋もれて
死ぬ。われひとり死をまぬがれたりとて、なくなくか
たる。其南に坊村有。」
土地の人の話では、谷川はそのために埋まったが、そ
の内に白蛇がでて水が通ったと云う。この寛文の大地震
の際には葛川谷ではこの両村の他の村々も相当な被害が
あった様である。
この大地震について考える。おそらく地震は武奈岳山
稜にそう大断層に伴なう大山崩れであって、もとの町居
は現在の部落の北、二〇〇米位の左岸の低い段丘上から
斜面にかけてあったものと推定される。現在の町居の北
に寺を含めて三戸が川から二〇米以上の高所に位置して
いて、その一番下に小さな寺があり、普門山観音寺と称
している。これは町居の所縁の人が供養のために、もと
の町居のあとに建てたものと伝えられている。今寺域の
一隅に建つ石造宝篋印塔は現在明王院域にあるものと全
く同形式のものであるが、この寺域につづく数米下の南
東の畑の土中から発見されたものである。明王院のもの
は南北朝期のものであり、この地にもこの頃から何か寺
でもあったのであろう。この辺から川岸にかけて川下に
昔の町居があったものと推定される。寛文の大地震にも
とづく山崩れとその堆積の名残りは今も硫黄のはげの大
崩れとその下にとどめられている。