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項目 内容
ID J2400385
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1662/06/16
和暦 寛文二年五月一日
綱文 寛文二年五月一日(一六六二・六・一六)〔若狭・美濃・畿内〕
書名 〔(相応和尚)葛川明王院(開創一千百年記念)〕叡山文化綜合研究会編S35・11・23葛川息障明王院
本文
[未校訂]寛文大地震による山崩れ
 安曇川東側、梅ノ木の南に数ケの山崩れのあとが見え
るが、その内の最大のものは通称「イヲウノハゲ」とい
い、硫黄の字があてられているが、その意味はわかりか
ねる。武奈岳の南西につづく山陵の頂上近くからのガレ
であって、頂部は一〇〇〇米、底部の谷まで比高約七〇
〇米に及ぶ見るからに怖ろしい大山崩れのあとがある。
これは土地の人の云い伝えによれば、三日程前から山が
うなっていたが、寛文二年五月一日突然山が飛んできて、
昔この下にあった町居、柚ノ木の二部落を埋めてしまっ
たと云う。
 元禄二年二月三日、貝原益軒この谷を通り、
「[温井|ぬくい]村、此辺に、昔は町井[柚|ゆの]木と云両村あり。寛
文二年五月朔日、大地震の時東の山崩れて村里を埋み、
両村の人皆死すと云。東の山は、比良の高峰の両側也。
又谷の西にも高山あり。其間に谷川流る。町井、柚の
木は川ばたに在し村なりと云。此辺も高島郡也。篤信。
昔京にありし時、彼里の男の京に来りかたるをきけり。
大地震せし日、我れ朝より山にのぼりて、薪をきるに
おどろきて里にかへりしに、山くづれて、里は皆土に
埋もれ、わが父母兄弟親類、其外里人皆土に埋もれて
死ぬ。われひとり死をまぬがれたりとて、なくなくか
たる。其南に坊村有。」
 土地の人の話では、谷川はそのために埋まったが、そ
の内に白蛇がでて水が通ったと云う。この寛文の大地震
の際には葛川谷ではこの両村の他の村々も相当な被害が
あった様である。
 この大地震について考える。おそらく地震は武奈岳山
稜にそう大断層に伴なう大山崩れであって、もとの町居
は現在の部落の北、二〇〇米位の左岸の低い段丘上から
斜面にかけてあったものと推定される。現在の町居の北
に寺を含めて三戸が川から二〇米以上の高所に位置して
いて、その一番下に小さな寺があり、普門山観音寺と称
している。これは町居の所縁の人が供養のために、もと
の町居のあとに建てたものと伝えられている。今寺域の
一隅に建つ石造宝篋印塔は現在明王院域にあるものと全
く同形式のものであるが、この寺域につづく数米下の南
東の畑の土中から発見されたものである。明王院のもの
は南北朝期のものであり、この地にもこの頃から何か寺
でもあったのであろう。この辺から川岸にかけて川下に
昔の町居があったものと推定される。寛文の大地震にも
とづく山崩れとその堆積の名残りは今も硫黄のはげの大
崩れとその下にとどめられている。
出典 新収日本地震史料 続補遺
ページ 85
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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