[未校訂] 16番の寛文二年(江戸時代)の地震は、大溝地震とも、
また勝野地震あるいは寛文の大地震、寅の大地震ともい
われるもので、当町に一番大きな影響を与えた地震と思
われる。五月一日、朝よりどんよりと曇っていたが午の
刻、大地震があり、地われ家倒れ、湖西と京都に大きな
損害を与えた。余震も一〇〇回以上と伝えている(『続
史愚抄』)。郡内では山崩れによって安曇川がせき止めら
れ、朽木で水没が起きたと伝えている。当町域でも大被
害を受け、家屋の倒壊、山崩れ、湖岸線の変化などがあ
り死者数十人、知内川の流れも変わり、過半数の家が全
半壊したと伝えている(近世編第五章第四節で詳説)。
寛文の大地震江戸時代初期の寛文二年五月一日午の刻
(午前一一時)に発生した大地震で、記録
上では高島郡で最も激しく被害の多かった地震であろう。
震源地は高島町上音羽付近で(一説では北小松沖二キロ
メートル)、局地的ではあったが、当町は震源地にも近
く、「勝野の大地震」とか「[寅|とら]の地震」と呼ばれて大き
な爪跡を残した。勝野とは高島町大字勝野のことであり、
寅とはこの年が寅[歳|どし]であったためである。マグニチュー
ド七・六ぐらいと推定され、震度は七の激震である。余
震も一〇〇回に及んだと伝え(『続史愚抄』)、湖西から
京都にかけて大被害を受けている。『高島旧記』は、「今
津ハ三分ノ一崩レ、梅津ハ過半崩レル。[佐和|さわ]村(沢村)
ヨリ北西ヘハ六ケ村(六集落)二七間(軒)残ル外、[悉|ことこと]
ク崩レタリ。人モ七人死ス……(以下略)」と述べてお
り、当町全域で壊滅的な被害を被ったもののようである。
「石橋・石鳥居ハ悉ク皆崩レ」と伝え、余震も直後は一
日数十回に及んだ。町域での死者数などについては正確
な記録はないので、梅津願慶寺の過去帳の記録から推察
してみよう。
表では六月・七月の死者数が異常に多くなっている。
五月一日の地震発生に対し、六月・七月に死者が多いと
いうことは、重傷者が多かったか、被災による悪病の発
生を物語るものであろう。五~七月の平均が一二人余で
あり、他の九か月平均が三人足らずなので、地震に関係
して死亡者数が四倍になったと推測できる。願慶寺だけ
でこれぐらいであるので、町域での犠牲者はかなりの数
に上ると思われる。直接の圧死は案外少なく、負傷者が
多かったことも考えられる。
願慶寺寛文2年
檀徒死亡数
またこの激しい揺れのため、各所でがけ崩れや隆起・
[陥没|かんぼつ]が起こったらしい。このことは、約四〇年後出され
た『川役御赦免願』(『上開田区有文書』)でよくわかる。
中庄村からは「四拾壱年前、寅地震ヨリ湖水道切リ埋レ、
其ノ上年々波打上ゲ高浜ニ罷リ成リ」と述べているし、
上開田村は「山崩レ、年々石砂押シ流シ川高クナリ」と
述べ知内村・西浜村ともに寅地震からの異常により、魚
が溯上できなくなったので、川魚にかかる税を免じてほ
しいと述べている。
震源地の高島町付近の大被害はもちろんのこと、朽木
地区では山崩れがあり、安曇川がせき止められ大災害に
なっている。『高島旧記』には「朽木ハ無残ニシテ、大
川ノ上リニハ朽木村待居村両所ニ他行ノ者、四二人坊主
一人残リ、其ノ外老若男女、崩レ山ニ埋レテ死ス。他所
ノ買人往来ノ牛馬死スル事、数ヲ知ラズ。……二百間、
二(ママ)千百八十間海トナル」と述べているし、『明王院文書』
の記述では「榎村東ノ大峯、十三町程上ヨリ二ツニ破レ
テ、榎・町居両村悉ク打埋レ、即チ大川ヲ関留メ……坊
村ノ在家等、残ラズ流レニ浮キテオワンヌ……」と出て
いる。
また、福井県三方五湖付近の変動も著しく、隆起のた
め三方五湖の排水路を失い、湖畔の諸村は水没したので、
余震の続く中で排水路をつくる突貫工事を始め、約一年
後に完成している。三方断層と比良断層は南北に一直線
状に連なっており、この付近での隆起や陥没がひどかっ
たのであろう。