[未校訂]膳所城昔ノ間数
一、本丸、東西十八間・南北廿五間。
一、[帯郭|オビクルワ]、東西十九間半・南北廿五間。
一、二ノ丸、東西三十八間・南北五十三間。
一、二ノ丸馬出シ并ビニ北ノ丸ノ間数、今ノ城ニ同ジ。但
シ、寛文二[寅|トラ]年以前ノ城ノ通リナリ。
一、寛文二寅年五月[朔日|ツイタチ]、大地震ニ付キ石垣・矢倉・多門
塀等[悉|コトゴト]ク大破、其ノ上本丸狭キニ依テ、[序|ッイデ]ヲ以テ、二ノ
丸ヲ本丸ノ内へ取リ入レ度キ旨同七月廿八日ニ御訴訟、
則チ上聞ニ達シ、同八月廿六日連々普請仕ル可キノ旨仰
セ出ダサル。此ノ時ノ御老中酒井雅楽頭殿(忠清)、阿
部豊後守殿(忠秋)、稲葉美濃守殿(正則)ナリ。
膳所城今ノ間数
一、本城東西、南ニテ七十三間ホド、北ニテ七十四間ホド、
南北、東ニテ四十三間ホド、西ニテ六十間ホド。前ノ城
ノ二ノ丸ヲ今ノ本城へ取リ入レ、前ノ三ノ丸ヲ今ノ二ノ
郭トシ、今ノ二ノ郭ノ南ヲ三ノ郭トス。
一、二ノ郭東西、南ニテ四十八間ホド、北ニテ四十七間ホ
ド。南北、東ニテ七十九間ホド、西ニテ七十六間ホド。
一、二ノ郭西南ノ堀、長サ百十六間ホド。寛文二寅年普請
ノ段、新規ニ之ヲ掘ル。
一、三ノ郭東西、南ニテ三十八間ホド、北ニテ四十一間ホ
(ド脱)。南北、東ニテ四十七間程、西ニテ五十二間ホ
ド。
一、本城馬出シ、東西廿五間ホド、南北廿五間ホド。
一、北ノ丸東西、南ニテ三十二間ホド、北ニテ廿七間ホド。
南北、東ニテ廿四間ホド、西ニテ廿五間ホド。
一、惣郭、東西六十間余、南北三百十間余。
(中略)
天守矢倉
一、天主四重、上ノ重三間四方十八畳敷。二重目四間四方
三十二畳敷、三重目五間六間六十畳敷、下ノ重七間ニ八
間百十二畳敷。
(膳所城址の項)
さて、膳所城の縄張りについては、豊富な絵図類によ
り、その変遷が詳しくつかめるが、寛文二年(一六六二)
に近江国を襲った大地震による被害の修復後、その様相
が大きく変わる。すなわち、寛文二年以前のいわば前期
の膳所城は、坂本城・大津城をうけついだ形式をとる琵
琶湖の水をうまくとり入れた水城といえる。正保年間
(一六四四~四八)の「近江国膳所城絵図」(『内閣文庫
所蔵文書』)によると、本丸は湖上に突き出た形で、西
側の二の丸と橋でつながれており、東西一八間×南北二
六間の規模をもち、北西隅に四層の天守閣が建つ。二の
丸は東西三六間×南北五三間で、侍屋敷地と橋でつながっ
ていた。この絵図にはみえないが、のちに二の丸の南に
三の丸も設けられていたことが寛文二年の絵図により知
られる。
これに対し、寛文二年の修復後の後期膳所城は、旧来
の本丸と二の丸を合体して、東西六六間半~八〇間半×
南北四八間半~五五間の台形状を呈する本丸となる。さ
らに、前期の三の丸部分は侍屋敷地と地続きになってい
たが、修復後は西側に堀を設け、侍屋敷地から切り離し
て二の丸とし、橋でつながれた。規模は東西四六間~五
○間×南北七三間を測り、ほぼ[矩型|くけい]を呈している。途中
小規模な修復は何回か行なわれているが、基本的には寛
文二年修復後の縄張りを幕末まで受け継いでいった。
現在、膳所城の遺構はほとんど残っていないが、わず
かに本丸部分が膳所城跡公園として保存されており、当
時の姿をとどめている。また二の丸部分には膳所浄水場
が建ち、侍屋敷地は膳所公園団地となっている。
膳所城の発掘調査は昭和三十二年・三十三年の大津市
図17 膳所城天守台の石垣遺構
教育委員会の本丸
跡の調査以外、まっ
たく手がつけられ
ていなかったが、
近年、坂本城・大
津城の発掘調査に
着手したのを契機
に、膳所城とその
城下町についても
発掘調査を実施す
るようになり、現
在までに大津市教
育委員会が三カ所
の調査を行なって
いる。
昭和五十八年、
膳所城跡公園整備
にともなって実施
した本丸跡の発掘
調査では、残存状
態はひじょうに悪
かったが、湖岸に
面した本丸外周部
分の石垣が検出され、あわせて天守台と二カ所の[櫓|やぐら]の位
置が確定できた。天守台石垣基底部の大きさは東西二一・
五メートル(一二間)×南北一八メートル(一〇間)を測る。また、
本丸外周石垣の前面(湖岸側)に、幅三メートル前後にわた
り長さ一〇~三〇センチ程度の石材が堆積しており、湖の
波から石垣基底部を保護するための施設と考えられてい
る。さらに、石垣には、古墳時代の[刳|く]り抜き式石棺の一
部も石材として利用されていた。
また、昭和五十七年に実施した[篠津|しのづ]神社西側隣接地点
の発掘調査では、同神社地と侍屋敷地との境を示すとみ
られる南北方向の大規模な素掘りの溝がみつかっており、
構内から多量の江戸時代後半ころの国産陶磁器類が出土
している。さらに、昭和五十九年に行なった本丸前面に
位置する「[馬出|うまだし]」の西側の堀にあたる部分の調査でも、
江戸時代後半から明治時代にかけての多量の国産陶磁器
類とともに、[曲物|まげもの]・[箸|まし]・[下駄|げた]などの木製器がみつかって
おり、徐々にではあるが、膳所城や城下町に関する考古
学的な資料も増えつつある。